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田村麻呂の槍

その日の夕刻。


少弐冬明は、昼間にまとめた地図と兵学館から借りた書物を抱え、中尊寺の高僧のもとを訪ねた。


「僧正様、一つお聞きしたいことがあります。」


高僧は穏やかに微笑む。


「ほう、少弐殿が質問とは珍しい。」


少弐は地図を広げた。


坂上田村麻呂の進軍経路。


胆沢、志波、平泉、そして北へ延びる墨の線。


さらに成田、鹿島、寺社や城郭を書き込んだ印。


「私は、田村麻呂は征服した土地に寺社を建て、兵站や統治の拠点として整えていったのではないかと考えました。」


高僧は最初こそ静かに聞いていたが、やがて目を見開いた。


「……ほう。」


少弐は続ける。


「また、軍記に現れる鬼や竜、大蛇は、実際には各地の部族や砦を比喩したものではないでしょうか。」


その瞬間だった。


高僧の顔がぱっと明るくなる。


「面白い!」


思わず立ち上がる。


「実に面白い!」


周囲の若い僧たちも驚いて顔を上げた。


高僧は少弐の肩を叩く。


「少弐殿!」


「はい。」


「実は、拙僧は若い頃から坂上田村麻呂公が大好きでしてな。」


少弐たちは思わず笑う。


「寺務の合間に古記録を集め、各地の伝承を調べ歩いたこともございます。」


ライラが小声でマリアへ囁く。


「なんだか急に少年みたいな顔になったわ。」


高僧は嬉しそうに頷いた。


「そうだ!」


「今宵は晩餐をご一緒いたしましょう!」


「本も持って参ります!」


「まだまだお話ししたいことが山ほどございます!」


そう言うや否や、若い僧へ次々と指示を飛ばす。


「書庫から『田村将軍縁起』を!」


「いや、『胆沢古記』もだ!」


「酒も少し用意しよう!」


その様子に四人は顔を見合わせ、思わず笑みを浮かべた。



---


夜。


中尊寺の一室。


灯火が揺れ、質素ながら温かな晩餐が始まった。


山菜。


川魚。


胡桃味噌。


粥。


精進料理を囲みながら、高僧は終始楽しそうに話し続けた。


「東北には、不思議な土地が多いのです。」


そう言って古地図を広げる。


「今でこそ湖ですが、昔は大きな湿地や干潟であったと伝わる場所も少なくありません。」


少弐は身を乗り出した。


「湿地ですか。」


「ええ。」


高僧は頷く。


「天然の要害です。」


「砦にもなりますな。」


少弐も静かに頷く。


「つまり。」


高僧は楽しそうに続ける。


「田村麻呂公が戦った場所には、不思議と竜や大蛇の伝承が残るのです。」


巻物を一つ開く。


「この地では大蛇。」


「こちらでは竜。」


「また別の地では鬼。」


イネスは呟いた。


「同じ話が場所だけ変わって繰り返されている。」


「まさしく。」


高僧は笑った。


「湖ができたのは竜が暴れたから。」


「湿地が広がったのは大蛇が身をよじったから。」


「そして田村麻呂公がこれを討ち鎮めた。」


ライラが腕を組む。


「やっぱり比喩ね。」


マリアも頷く。


「天然の要害を攻略した記憶が、怪物退治へ変わった。」


高僧は満足そうに笑う。


「その考え方、拙僧も好みです。」


そして、一冊の巻物を静かに開いた。


「最も有名なのは十和田でございます。」


そこには巨大な八つ首の蛇が描かれていた。


「田村麻呂公は、この八岐大蛇と戦い、首を一つずつ討ち落としたと伝わります。」


部屋は静まり返る。


少弐は絵を見つめながら言う。


「もし比喩なら。」


「八つの首とは。」


高僧は深く頷いた。


「おそらく複数の部族長。」


「あるいは八つの砦。」


「混成軍。」


「そのような大軍との決戦だったのでしょう。」


マリアも納得したように微笑む。


「西洋の軍記にも似た表現があるわ。」


「一人の魔王ではなく、諸侯連合を怪物として描くことがあるもの。」


高僧は嬉しそうに何度も頷いた。


「実に面白い。」


「皆様のお話で、古い伝承が違って見えてきました。」



---


やがて高僧は立ち上がる。


「さて。」


「本日はもう一つ。」


その声が少し低くなる。


「本来なら何百年に一度しか開帳いたしませぬ。」


若い僧たちも息を呑む。


高僧は静かに奥の蔵へ消えた。


しばらくして戻ってきた彼の腕には、古びた長い箱が抱えられていた。


布を解き、ゆっくりと蓋を開ける。


そこには一本の槍が納められていた。


木目の美しい柄。


長い年月を経てもなお、凛とした存在感を放つ。


しかし。


マリアが首を傾げる。


「あれ?」


ライラも目を細める。


「穂先が……ない。」


槍は途中で途切れていた。


高僧は静かに微笑む。


「これが。」


「坂上田村麻呂公の槍と伝わるものです。」


少弐は息を呑んだ。


「ですが。」


高僧は失われた先端へ目を向ける。


「肝心の鋒は残っておりません。」


「なぜですか。」


イネスが尋ねる。


高僧は静かに語る。


「伝承では。」


「田村麻呂公が津軽を鎮めた折。」


「この槍の鋒を大地へ捧げ。」


「土地の神々を鎮めた、と申します。」


部屋は静まり返った。


少弐の脳裏に、一つの話がよみがえる。


螺旋の鋒。


津軽。


土地へ捧げられた神器。


すべてが一本の線でつながり始めていた。


高僧は穏やかに笑った。


「拙僧も、一度でよい。」


「その鋒を見てみたいものですな。」


その言葉を最後に、晩餐は静かに幕を閉じた。


しかし四人の胸には、新たな目的地がはっきりと刻まれていた。


津軽。


そこに、田村麻呂が捧げたという槍の鋒と、北の伝承の真相が眠っているのかもしれない。

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