北方への扉
平泉に雨が降っていた。
館の庭を濡らす雨音だけが、静かな座敷に響いている。
葛西晴信と少弐冬明は向かい合ったまま、しばらく言葉を交わさなかった。
やがて少弐が静かに口を開く。
「葛西殿。」
「はい。」
「私は氏治様ではありません。」
晴信は小さく頷いた。
「ゆえに、小田家として約束はできませぬ。」
「承知しております。」
「ですが……。」
少弐は地図を広げる。
そこには常陸から会津、平泉、さらに北へ続く道筋が描かれていた。
「私個人の判断として、一つだけ申し上げられることがあります。」
晴信は身を乗り出す。
少弐は北上川を指差した。
「小田は北方航路を切り開こうとしております。」
「北方航路……。」
「ええ。」
少弐はさらに地図を北へなぞる。
「北の海には、まだ誰も知らぬ交易路があるかもしれません。」
「毛皮、海獣、良馬、そして異国の品……。」
「我らは、それを求めています。」
晴信の目に光が宿る。
少弐は続けた。
「その時、葛西殿。」
「はい。」
「平泉と石巻は、北への玄関となります。」
「……。」
「北から運ばれる宝は葛西を経て坂東へ。」
「そして帰りの船には。」
少弐は穏やかに笑う。
「小田の鉄、武具、長筒、生活物資を積むこともできましょう。」
晴信は思わず息を呑んだ。
「交易で結ばれる、と。」
「はい。」
「戦だけではございません。」
少弐はゆっくりと言葉を選ぶ。
「交易路は、人も物も、そして情報も運びます。」
「葛西が北方航路の玄関となれば。」
少弐は一度言葉を切った。
「本来なら氏治様に仕える身として、この先を申し上げるべきではありません。」
晴信は静かに聞き入る。
「しかし。」
少弐は晴信を真っ直ぐ見つめた。
「もし葛西が北方航路の要となれば。」
「……。」
「氏治様も、その地を無下には扱えないでしょう。」
晴信の瞳が揺れる。
「北方交易を支える国が危機に陥れば。」
少弐は静かに言った。
「有事には、必ずや手を差し伸べる理由が生まれます。」
「それは……。」
「軍事同盟の約束ではありません。」
「はい。」
「しかし交易とは、それほど強い絆にもなり得るのです。」
晴信は深々と頭を下げた。
「それだけでも……十分でございます。」
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その夜。
宿へ戻った少弐は、一人で地図を広げていた。
燭台の火が揺れる。
伊達。
最上。
葛西。
大崎。
相馬。
南部。
札を並べ替えては戻し、戻しては並べ替える。
少弐は思わず額に手を当てた。
「これは……。」
深いため息が漏れる。
「なんという土地だ。」
外から戻ってきたマリアが不思議そうに覗き込む。
「どうしたの、冬明。」
少弐は苦笑した。
「私は東北を、婚姻で固く結ばれた一つの世界だと思っていた。」
イネスも椅子に腰掛ける。
「違ったの?」
少弐は地図を指差した。
「まるで違う。」
ライラも腕を組んだ。
「何が見えた?」
少弐はゆっくり答える。
「婚姻で結ばれているように見えて、その裏では利害が幾重にも絡み合っている。」
伊達は葛西と結びながら、その勢力を恐れさせる。
最上は葛西に手を差し伸べる素振りを見せながら、葛西が伊達と争えば自らが利益を得る。
葛西は伊達を頼れず、最上も頼れず、小田へ活路を求める。
大崎もまた、その動向次第で立場が変わる。
そして北には南部が控える。
少弐は地図の上に置かれた札を見つめた。
一本の糸ではない。
幾十、幾百という糸が互いに絡み合い、引けば別の糸が動き、ほどこうとすればさらに絡まる。
「婚姻は絆であると同時に、鎖でもある。」
誰にも聞かせるでもなく呟く。
「東北とは……混沌そのものだ。」
部屋は静まり返った。
マリアは地図を見つめ、小さく微笑む。
「だから面白いのよ。」
イネスも頷いた。
「誰も一人では生き残れない。」
ライラは窓の外、雨に煙る平泉の町を見つめる。
「そして、だからこそ外交官が必要なのね。」
少弐は苦笑しながら地図を畳んだ。
「まったく……氏治様は、とんでもない仕事を私に任せてくださったものだ。」
その言葉とは裏腹に、その瞳には、この複雑な奥州を解き明かそうとする静かな決意が宿っていた。




