北上川の懇願
平泉に滞在して数日。
中尊寺ではマリア、イネス、ライラの三人が、高僧から奥州藤原氏の歴史や北方交易の伝承について話を聞き、古文書や宝物の調査を続けていた。
一方、少弐冬明は、毎日のように葛西晴信から館へ招かれていた。
最初は世間話から始まり、北方の情勢、石巻の港、北上川の水運へと話は移る。
そして最後には必ず同じ話題へ戻る。
「少弐殿……。」
晴信は深々と頭を下げた。
「どうか、小田殿へのお取り次ぎをお願いしたい。」
少弐はその姿を見るたびに胸が痛んだ。
葛西晴信は決して己の面目のために頭を下げているのではない。
家を残すためである。
それが痛いほど伝わってきた。
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ある夜。
館には二人だけが残っていた。
障子の外では春の雨が静かに瓦を叩いている。
晴信は地図を広げた。
「少弐殿。」
「はい。」
「数年前までは違いました。」
晴信は伊達、最上、葛西、大崎の名を書いた札を並べる。
「伊達も最上も互いを警戒し、それぞれ南や西にも敵を抱えておりました。」
少弐は黙って聞く。
「しかし今は違います。」
晴信は相馬の札を指差した。
「相馬は小田殿のお味方となりました。」
続いて蘆名の札を静かに脇へ退ける。
「蘆名も消えました。」
部屋は静まり返る。
「小田殿という大国が南を押さえられたことで、伊達も最上も背後を気にせず北へ目を向けられるようになったのです。」
少弐も静かに頷いた。
その分析は正しかった。
「伊達は北上川を望み、最上は庄内からさらに北を望む。」
晴信は苦く笑う。
「まるで競うようです。」
彼は葛西の札を手に取った。
「その間にあるのが我らです。」
札を大崎の前へ置く。
「伊達から見れば、大崎へ向かう先兵。」
今度は札を外へ動かした。
「最上から見れば、大崎の代わりに燃えてくれる盾。」
晴信は小さく息を吐く。
「どちらも葛西を一つの国として見てはおりませぬ。」
その言葉には長年積み重ねてきた苦悩が滲んでいた。
「伊達は葛西を通路と見、最上は葛西を緩衝地帯と見る。」
少弐は静かに言った。
「ええ。」
晴信は深く頷いた。
「このままでは、葛西はいずれ選ばねばなりませぬ。」
「伊達か。」
「最上か。」
「……あるいは滅ぶか。」
雨音だけが部屋に響いた。
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やがて晴信は座を正し、少弐へ向き直る。
「だからこそお願い申し上げます。」
その声はこれまでで最も真剣だった。
「氏治公へお取り次ぎください。」
少弐は黙って見つめる。
「葛西は小田家に従属を願うものではございませぬ。」
「……。」
「ただ、東北の均衡を守る一石として用いていただきたい。」
晴信は深々と頭を下げた。
「葛西が残れば、伊達も最上も一息には動けませぬ。」
「葛西が倒れれば。」
「奥州の均衡は崩れます。」
少弐はしばらく言葉を失った。
目の前にいる男は、自らの栄達ではなく、一族と領民の未来を守るために頭を下げている。
外交とは本来、こういうものなのだ。
少弐はゆっくりと立ち上がり、晴信の前へ歩み寄った。
「葛西殿。」
晴信も顔を上げる。
「私は使者です。」
「はい。」
「氏治様のご判断を約束することはできません。」
晴信は静かに頷いた。
「ですが。」
少弐は晴信の手を取り、力強く握った。
「この地で見聞きしたこと、一言一句違えず、必ず氏治様へお伝えいたします。」
晴信は安堵したように目を閉じた。
「それだけで十分でございます。」
北上川を渡る春風が障子を揺らした。
その風は、平泉から常陸へ、そして坂東へと、葛西家の切実な願いを運んでいくかのようであった。




