北上川の楔 ― 葛西晴信の憂慮
平泉、中尊寺。
春まだ浅い奥州の山々は雪を頂き、北上川は静かに大地を潤していた。
マリア・アルヴェス、イネス・ロドリゲス、ライラ・アルカセルの三人は、中尊寺の高僧に案内され、藤原氏ゆかりの経蔵や金色堂を巡っていた。
「奥州藤原氏は、戦だけで栄えた国ではございませぬ。」
高僧は静かに語る。
「北の蝦夷、さらにその先の海を越えた人々とも交易し、黄金や馬、毛皮を集め、文化を育みました。」
マリアは興味深そうに問いかけた。
「北の海……その向こうにも人が住んでいるのですか。」
「古くからそのように伝わっております。」
イネスは建物に刻まれた模様を写し取りながら呟く。
「この地は東西を結ぶだけでなく、北へ向かう入口でもあるのですね。」
ライラは境内を見渡しながら、小さく頷いた。
「だからこそ、多くの武将がこの地を欲する。」
高僧は静かに微笑んだ。
「争いは尽きませぬ。しかし、この地を守る者もまた絶えることはありませぬ。」
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その頃。
平泉の館では、少弐冬明が葛西晴信と向かい合っていた。
障子を開けば、遠く北上川がゆったりと流れている。
晴信は茶碗を置くと、静かに口を開いた。
「少弐殿。我ら葛西は伊達と誼を結んでおります。」
少弐は頷く。
「存じております。」
「されど、それは友だからではござらぬ。」
晴信の声には重みがあった。
「伊達は年を追うごとに勢いを増しております。家臣らは皆、あの家の才覚を認めておりますが……その勢いは、いずれ味方すら飲み込むでしょう。」
少弐は静かに茶を口にした。
「協力関係も長くは続かぬ、と。」
「ええ。」
晴信は地図を広げる。
「伊達は南を望めば小田殿と相馬、北へ向かえば我ら葛西、西へ向かえば最上。どこへ向かおうとも戦になります。」
少弐は北上川に沿って指を滑らせた。
「では最上と結ぶお考えは。」
晴信は苦笑した。
「最上もまた信用できませぬ。」
「ほう。」
「彼らは葛西を助けようとは思っておりませぬ。」
晴信はため息をつく。
「葛西が伊達と争えば、その隙に最上は庄内や北へ手を伸ばせます。葛西を盾として使い、燃え広がる火を眺めるつもりでしょう。」
少弐は静かに笑った。
「伊達は近すぎて恐ろしく、最上は遠すぎて冷たい。」
「まさしく。」
晴信は苦く笑った。
「どちらも覇を望む者です。」
館にはしばし沈黙が流れる。
やがて少弐はゆっくりと口を開いた。
「葛西殿、小田はどちらか一方を天下人にするつもりはありません。」
晴信は顔を上げた。
「申されますな。」
「伊達が強くなりすぎれば、やがて南へ向かうでしょう。」
「……。」
「最上が強くなりすぎても同じことです。」
晴信は頷いた。
少弐は地図の中央、北上川流域を指差した。
「だからこそ、この川筋が重要なのです。」
晴信もその場所を見る。
「平泉、石巻、北上川。」
「ここを葛西が押さえている限り、伊達も最上も思うようには動けません。」
晴信は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「つまり葛西を残すことが、奥州の均衡につながると。」
「その通りです。」
少弐は続けた。
「小田は相馬を支えます。そして葛西とも手を結びたい。」
「伊達とも最上とも敵対せず、しかし飲み込まれもしない。」
「均衡こそが平和への近道です。」
晴信は窓の外へ目を向けた。
春の日差しを受け、北上川が静かに流れている。
「少弐殿。」
「はい。」
「葛西は大国ではございませぬ。」
「承知しております。」
「されど、この川を渡らせぬ楔にはなれましょう。」
少弐は深く頷いた。
「それで十分です。」
二人は静かに立ち上がり、固く手を取り合った。
その頃、中尊寺では三人が高僧から北方航路にまつわる古い伝承を聞いていた。
誰も知らぬところで交わされたこの約定は、やがて奥州全体の均衡を左右する、小さくも重い一歩となるのであった。




