交渉人の背中
春の陽射しを受けながら、エスペランサは東国を目指して静かな海を進んでいた。
昼下がり、少弐は甲板に敷かれた敷物へ横になる。
「今日も少しお願いできますか。」
「もちろんです。」
ライラは笑顔で頷き、空蝉から教わった通り、ゆっくりと少弐の肩へ手を添えた。
首から背中、腰へ。
重心を預けるように静かに圧をかけていく。
最初はぎこちなかった手つきも、毎日続けるうちに少しずつ自然になってきていた。
「今日は昨日より上手ですよ。」
少弐が笑う。
「本当ですか。」
「ええ。」
ライラは安心したように微笑み、再び腰へ手を移した。
そのたびに、不思議なことに気付く。
外交官だという男の身体は、思っていたものとは違っていた。
肩や腕は決して大きくはない。
しかし無駄な脂肪はなく、鍛錬を積んだ者だけが持つ締まった筋肉がある。
背中には古い刀傷らしい細い傷跡が幾つか残っていた。
そして腰から臀部にかけては、長年馬へ乗り続けた者に特有の硬く引き締まった筋肉がついている。
(……交渉人の身体じゃない。)
ライラは心の中で思った。
(槍を持ち、鎧を着て、何年も馬上で戦ってきた人の身体。)
空蝉が「古傷」と言った意味が、少し分かった気がした。
腰が悪いというのも、おそらく長い軍旅の積み重ねなのだろう。
施術を終えると、ライラは静かに尋ねた。
「少弐殿。」
「はい。」
「あなた、本当はずっと将として戦ってこられたのでしょう。」
少弐は少しだけ目を丸くし、それから苦笑した。
「どうしてそう思われます。」
「身体です。」
ライラは率直に答えた。
「武術をしている人間には分かります。肩も背中も、そして馬に乗る人独特の筋肉もあります。」
少弐は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「買いかぶりですよ。」
「そんな立派なものではありません。」
「今の私は、ただの交渉人です。」
ライラは納得していない表情を浮かべた。
「でも……。」
少弐は杖を手に取り、ゆっくり立ち上がる。
「確かに昔は槍を持っておりました。」
「その頃の無理が祟って、今は腰や膝が時々言うことを聞かなくなるだけです。」
少し脚をさすりながら笑う。
「普段は平気なんですよ。たまに足が痺れるくらいで。」
ライラは心配そうに見つめた。
少弐はその視線に気付き、穏やかな声で言った。
「心配はいりません。」
「もしもの時は――。」
杖を軽く握り直す。
「交渉人であろうと、武士であることは変わりません。」
その表情には普段の柔和さはなく、静かな覚悟だけがあった。
「皆さんを守る時が来たなら、その時は私が前に立ちます。」
ライラはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……やっぱり、交渉人だけではありませんね。」
少弐は肩をすくめる。
「外交とは、時に命懸けなのですよ。」
その言葉に、甲板で海図を見ていたマリアも、日誌を書いていたイネスも顔を上げた。
春の風が四人の間を吹き抜ける。
誰もそれ以上は尋ねなかった。
だがライラは胸の内で確信していた。
少弐冬明という男は、自らを「ただの交渉人」と呼ぶ。
しかしその背中には、長い戦場を生き抜いてきた者だけが持つ静かな重みが刻まれていたのである。




