春風と杖
堺を発ったエスペランサは、春の穏やかな海を東へと進んでいた。
甲板ではマリアが航路を確認し、イネスは奈良で集めた資料を整理している。
その傍らで、少弐冬明は籠から黄色や橙色の果実を取り出した。
「さあ、皆さん。畿内の土産ですよ。」
「これは……。」
ライラが手に取ると、爽やかな香りが漂う。
少弐は笑って言った。
「これは柚子。こちらは蜜柑です。」
三人は聞き慣れない名に首を傾げた。
少弐は分かりやすく説明する。
「西洋で言うなら、東洋のレモーネとアランチャのようなものですよ。」
「なるほど。」
マリアは蜜柑の皮を剥きながら頷いた。
「甘い香りね。」
イネスは柚子を鼻に近づける。
「こちらはレモンより柔らかい香りです。」
四人は甲板に腰掛け、春風を浴びながら果実を分け合った。
旅の疲れを忘れるような、穏やかな時間だった。
その時、ライラは少弐が船室の隅に立て掛けていた一本の杖に気付いた。
「少弐殿、その杖は?」
少弐は手に取り、軽く振ってみせる。
「最近使うようになりましてね。」
ライラの表情が曇る。
「そんなに腰が悪いのですか。」
少弐は苦笑した。
「半分は本当、半分は芝居ですよ。」
「芝居?」
「ええ。」
彼は杖を肩へ担いだ。
「旅先では老人や怪我人と思われたほうが警戒されにくいこともあります。いざという時は護身具にもなりますし。」
そう言って杖を一回転させる。
その動きには長年武芸を修めた者らしい無駄のなさがあった。
ライラは思わず笑う。
「杖術も使えるのですね。」
「槍を長く扱っておりましたから。」
少弐は肩をすくめる。
「もっとも、本当に腰や膝が痛む日もあります。元気な時でも杖を持っていれば、演技も自然でしょう。」
イネスは少弐の歩き方を観察しながら尋ねた。
「脚が痺れることも?」
「たまにあります。」
「長く歩いたあとや寒い日でしょう。」
「その通りです。」
イネスは静かに頷いた。
「背中の傷から来るものですね。」
少弐は笑顔のまま答えた。
「空蝉殿にも同じことを言われました。」
懐から小さな包みを取り出す。
「痛み止め代わりの薬草も分けていただきました。」
ライラはその包みを見ると立ち上がった。
「では、少し失礼します。」
「え?」
「空蝉様に少しだけ教わったんです。」
少弐は苦笑する。
「まだ覚えたばかりでしょう。」
「だからです。」
ライラは笑みを浮かべた。
「やらないと上手くなりませんから。」
甲板に敷物を敷き、少弐は横になる。
ライラは空蝉に教わった通り、肩から腰へゆっくりと手を当てた。
腕力ではなく、重心を静かに預けるように圧を加える。
「ここですか。」
「……そう、その辺りです。」
「痛かったら言ってください。」
少弐の表情が少しずつ和らいでいく。
「空蝉殿ほどではありませんが……。」
「はい。」
「ずいぶん楽になります。」
ライラは安心したように微笑んだ。
「よかった。」
その様子を見ていたマリアが肘でイネスをつつく。
「旅の間は、ライラが専属の治療師ね。」
イネスも笑う。
「私は薬草を用意します。」
少弐は起き上がり、杖を手に取った。
「これでは護衛に治療師まで増えましたな。」
四人の笑い声は、春の潮風に乗って青い海へと消えていった。
東国はもう近い。
そしてその先には、北方の海と、まだ誰も知らない「本当の角」の謎が待っているのであった。




