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春を追って東へ

春を追って東へ


三月も末を迎える頃、奈良の山々にもようやく春の気配が漂い始めていた。


興福寺の境内では桜がほころび始め、吉野山では「あと幾日もすれば山一面が桜色に染まる」と僧たちが語り合っている。


旅支度を整えながら、マリアは一枚の地図を机に広げた。


「奈良での調査は終わったわ。」


イネスは旅の日誌を閉じる。


「仮説も一つまとまりました。」


ライラは法隆寺で写した螺旋状の角杯の写生を丁寧に筒へ納める。


「そして、この角だけが謎のまま。」


少弐冬明は頷いた。


「ならば次は東国ですな。」


マリアは地図の東北へ指を滑らせた。


「でも、今はまだ早い。」


「奥州は雪深い。」


少弐が答える。


「今向かっても峠は越えられません。春が北へ届くのを待ちましょう。」


その言葉に、イネスが暦を眺める。


「では、ちょうど春前線を追いかけるように東へ進むのですね。」


「その通り。」


少弐は笑った。


「京や奈良では春です。しかし東北では、これから雪解けが始まります。」


ライラは静かに頷く。


「その頃なら、山の民や猟師たちも動き始めますね。」


「ええ。」


「北方の話を聞くには、一番良い季節でしょう。」


翌朝、一行は興福寺の僧たちへ礼を述べ、奈良を後にした。


目指すは堺。


南蛮船が集まり、日本中の品々が行き交う大港である。



---


堺へ着くと、港は春の交易で活気に満ちていた。


マリアは懇意にしている商人たちを訪ね歩く。


「坂東まで運ぶ品を揃えたいの。」


数日のうちに船倉は畿内の名産で満たされていった。


京の織物。


奈良墨や和紙。


興福寺や春日大社の護符。


飛鳥で写した絵図。


堺鍛冶が鍛えた刃物。


茶器や漆器。


香や薬種。


さらに珍しい唐物も少しだけ積み込む。


マリアは満足そうに船倉を見渡した。


「これなら坂東でも喜ばれるでしょう。」


少弐も頷く。


「東国では珍しい品ばかりです。」


イネスは笑った。


「私たちの調査資料も大切な積み荷ですね。」


ライラは法隆寺の写生を胸に抱える。


「そして、一番価値があるのは、この記録かもしれません。」



---


春風を受け、エスペランサは静かに堺を離れた。


瀬戸内海を東へ進み、紀伊水道を抜ける。


やがて太平洋へ出ると、そのまま黒潮に乗って東国を目指す。


少弐は船首に立ち、水平線の彼方を見つめた。


「まずは霞ヶ浦の兵学館へ参りましょう。」


「氏治様や大掾殿なら、北方交易について何かご存じかもしれません。」


マリアは頷く。


「法隆寺の角についても、東国の学者たちの意見を聞いてみたいわ。」


イネスは新しい日誌を開く。


その最初の頁には、ただ一行だけ記した。


『北を目指す旅、始まる。』


春は都から東国へ、そしてさらに北へ。


一行は季節を追うように、新たな謎を求めて船を進めるのであった。

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