剣聖の名
その夜。
総稽古の余韻がまだ残る伊丹城の客間で、ライラは少弐冬明と向かい合って茶を飲んでいた。
しばらく黙っていたライラが、不意に口を開く。
「少弐様。」
「何でしょう。」
「佐野様は……。」
「昔からあんな剣だったのですか。」
少弐は少し懐かしそうに笑った。
「いいえ。」
「今とは少し違いました。」
ライラは身を乗り出す。
「違った?」
「ええ。」
少弐はゆっくり語り始めた。
「佐野様は若い頃、天覧試合という大会で優勝されました。」
「将軍の御前で腕を競う大きな試合です。」
「そこで一人の老人と知り合われました。」
「その方の名は――空蝉。」
「空蝉様……。」
「はい。」
「医術にも通じ、武術にも優れたお方です。」
「佐野様とは、その時以来のご友人ですね。」
「後には将軍家の護衛も務められました。」
ライラは興味深そうに聞き入る。
少弐はさらに続けた。
「当時の佐野様は、今よりもっと荒々しい剣でした。」
「剣だけではなく。」
「当て身。」
「投げ。」
「体術。」
「それらを織り交ぜた立ち合いを得意としておられました。」
「まるで武術全体で勝つような戦い方です。」
ライラは思い返す。
今日見た剣は、無駄がなく静かだった。
少弐は頷く。
「その後、多くの実戦と修行を経て、今のような剣へ変わっていったのでしょう。」
ライラは静かに息をついた。
「人って……。」
「ここまで変われるものなのね。」
少弐は穏やかに笑う。
「さて。」
「ライラ様にも一つ、お伝えしておきます。」
「はい?」
「あなたが毎日のように教えを受けている老人ですが。」
ライラは首を傾げた。
「上泉先生のことですか。」
「ええ。」
少弐は何でもないことのように言った。
「あのお方は剣聖と呼ばれております。」
「……。」
ライラは固まった。
「……え?」
「剣聖です。」
「日の本でも、そのように称えられる方ですよ。」
数秒の沈黙。
ライラはゆっくり少弐の顔を見る。
「……。」
「……。」
そして。
「それなら!」
思わず立ち上がった。
「もっと早く言ってくださいよ!」
ぽかっ。
少弐の肩を軽く叩く。
少弐は苦笑するしかない。
「いや……。」
「皆様、普通にお話しされていましたので。」
「普通じゃありません!」
ライラは思わず笑ってしまう。
「私は毎日、剣聖に木刀の持ち方から教わっていたの?」
「そうなりますね。」
「どうして誰も教えてくれなかったの!」
マリアとイネスは思わず吹き出した。
イネスが笑いながら言う。
「そういえば誰も説明していなかったわね。」
少弐は肩をすくめた。
「上泉様ご自身が、そのような肩書きを好まれませんから。」
「皆も、ただ上泉先生と呼んでおります。」
ライラは額に手を当て、大きくため息をつく。
「知らなかった……。」
「私、普通のおじいちゃん先生だと思ってた。」
少弐は静かに笑った。
「それで良かったのではありませんか。」
「肩書きを知っていたら、今ほど自然に学べなかったかもしれません。」
ライラはしばらく考えたあと、小さく笑う。
「……確かに。」
「明日から緊張しそうだけど。」
「今まで通り教えを請おう。」
少弐は頷く。
「それが一番です。」
窓の外では冬の夜風が庭木を揺らしていた。
ライラは改めて思う。
この数か月、自分は知らず知らずのうちに、日本でも最高峰の剣士たちから教えを受けていたのだ。
その幸運を、ようやく実感した夜だった。




