流水の先 ― 剣が動くとき
年末総稽古が終わると、道場には再び穏やかな空気が戻っていた。
門弟たちは汗を拭きながら今日の稽古を語り合い、それぞれ帰り支度を始める。
その頃、上泉伊勢守は静かに佐野昌綱を呼び止めた。
「佐野。」
「少し時間をいただけますか。」
佐野は一礼する。
「もちろんです。」
上泉は少し離れた場所で待っていたライラへ目を向けた。
「あなたも。」
ライラは少し驚きながら近づいた。
上泉は二人を向かい合わせると、小さく微笑んだ。
「二人とも、少し話をするとよいでしょう。」
そう言い残し、静かにその場を離れていった。
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佐野はライラへ深く一礼した。
「まず、お詫びを申し上げます。」
ライラは首を傾げる。
「お詫び……ですか。」
「はい。」
佐野は穏やかに続けた。
「あなたは二か月もの間、一日も休まず道場へ通われました。」
「異国の地で、日本の礼法から学び直し、誰よりも真剣に剣へ向き合われた。」
「にもかかわらず。」
「私は最初、お見せすることすらお断りしました。」
ライラは驚いて佐野を見つめた。
佐野は再び頭を下げる。
「あなたの真摯さを知ろうともせず、お断りしたことをお詫びいたします。」
ライラは慌てて首を振った。
「そんな……。」
「謝るのは私の方です。」
「あの時は、剣を見世物のようにお願いしてしまいました。」
「今なら分かります。」
「佐野様が断られた理由も。」
佐野は穏やかに微笑んだ。
「そう言っていただけるだけで十分です。」
ライラは胸が熱くなるのを感じていた。
この人は。
強いだけではない。
誤りだと思えば、自分から頭を下げられる人なのだ。
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しばらく沈黙が流れた。
やがてライラは、どうしても聞きたかったことを口にする。
「一つ、お聞きしてもよろしいですか。」
「どうぞ。」
「最後の吉田様との立ち合いです。」
「あの時……。」
「木刀を納めるような動きをされましたよね。」
佐野は少し考えてから頷いた。
「ええ。」
「相手を惑わせるためですか。」
ライラは真剣な眼差しで尋ねる。
佐野は静かに首を横へ振った。
「いいえ。」
「相手を惑わせようとする動きは下策です。」
ライラは思わず聞き返す。
「下策……。」
「はい。」
「もし惑わせようという心が先に立てば、その動きには迷いが生まれます。」
「本気でない攻めは、本気の攻めには見えません。」
「陽動とは。」
「相手が本物だと思うからこそ意味があります。」
「引っ掛かる者がいるとすれば、それはまだ未熟ということでしょう。」
ライラは静かに頷いた。
確かに、あの一瞬は「演技」には見えなかった。
本当に刀を納めるようにしか見えなかった。
佐野は続ける。
「あれは……。」
「居合の動きです。」
「居合?」
「本来なら鞘へ納め、そこから抜き放つ一連の技。」
「ですが木刀には鞘がありません。」
「ですから構えだけが残ったのでしょう。」
ライラは息を呑む。
「あれは考えてやったのではないのですか。」
佐野は少し笑った。
「考えていたら間に合いません。」
「頭で決めたことではありません。」
彼は自分の手を静かに見つめた。
「剣が考えて、身体が動いた。」
「ただ、それだけです。」
ライラは言葉を失う。
剣が考える。
最初は意味が分からなかった。
しかし、この二か月。
柳生や上泉から教わり続けた今なら、その言葉の重みだけは理解できた。
何千、何万という稽古の積み重ね。
礼。
構え。
足運び。
間合い。
それらすべてが身体へ染み込み、意識する前に自然と動く。
だからこそ、あの一瞬が生まれたのだ。
ライラは静かに頭を下げた。
「今日、日本へ来た意味が分かりました。」
佐野は少し驚いたように笑う。
「それは大げさです。」
「いいえ。」
ライラはゆっくり顔を上げた。
「私は今まで、剣は腕で振るうものだと思っていました。」
「でも今日、初めて知りました。」
「本当に強い人は、剣を振るうのではなく、剣と共に動いている。」
佐野は何も答えなかった。
ただ静かに一礼する。
ライラも同じように深く礼を返した。
その礼は、二か月前の形式だけの礼とは違っていた。
互いに剣を学ぶ者として交わす、心からの一礼だった。




