年末総稽古 ― 流水の剣
月日は静かに流れた。
マリアは京都や奈良を巡り、寺院に残る麒麟や霊獣の図像を写し、古い文献を読み比べていた。
イネスは寺社や古都の街並みを描き、日本で見聞きした伝承を一冊の旅行記へまとめていく。
少弐は必要な時だけ案内役を務め、それ以外は伊丹や堺を往復しながら各地との連絡に追われていた。
しかし――。
ライラだけは違った。
彼女は毎日のように伊丹の道場へ通い続けた。
柳生宗厳に基本を学び、
上泉伊勢守から一言の教えを授かり、
日本の礼法や間合いを身に付けていく。
いつしか道場の者たちも異国の女剣士を自然に迎え入れ、稽古が終われば笑いながら剣について語り合うようになっていた。
そして季節は巡る。
十二月。
年の締めくくりとなる総稽古の日がやってきた。
この日の恒例は、掛かり稽古。
一人の上級者が、休むことなく何十人もの相手を務める。
受けても受けても次の者が掛かってくる。
技だけではない。
体力も気力も試される稽古であった。
上泉伊勢守はライラへ穏やかに声を掛けた。
「今日は客人としてご覧なさい。」
「掛かり稽古は見るだけでも学ぶことが多い。」
ライラは静かに頭を下げた。
「はい。」
道場には張り詰めた空気が流れる。
若い門弟から始まり、次々と上級者へ掛かっていく。
木刀の打ち合う音だけが響いた。
そして――。
「佐野殿。」
名前が呼ばれた。
ライラは思わず息をのむ。
ついに、この数か月待ち続けた瞬間だった。
佐野昌綱は静かに中央へ進み出る。
礼を交わし、木刀を構える。
構えは決して大きくない。
むしろ自然体だった。
最初の門弟が飛び込む。
速い。
だが。
佐野は動かない。
いや、動いているのに、そう見えない。
相手の木刀が届く、その一瞬前。
ほんのわずかに身を開き、受け流し、相手の勢いだけを外へ逃がす。
その動きはまるで、
山あいを流れる細い川。
ぶつかるものを押し返すのではなく、
その力を受け止め、
静かに流してしまう。
「……。」
ライラは言葉を失う。
次々と掛かる門弟たち。
誰もが攻め込む。
しかし、誰一人として自分の間合いで打たせてもらえない。
佐野の剣は柔らかい。
まるで流水だった。
だが。
対峙している者だけが知る。
その静けさの奥にあるものを。
「……怖い。」
ライラは思わず呟いた。
マリアが振り向く。
「どうしたの。」
「分からない。」
「でも……。」
「佐野様から、とても冷たいものを感じる。」
上泉伊勢守は静かに頷いた。
「よく見ています。」
「流水のように見える剣ほど恐ろしい。」
「決して怒りではない。」
「相手を制するために磨き上げた気迫です。」
「戦場では、その一瞬の迷いが命を分けます。」
ライラは思わず背筋を伸ばした。
あれほど穏やかな人が。
あれほど優しい笑みを浮かべる人が。
木刀を握った瞬間だけは、
冬の湖面のように静かで、
近寄れば凍り付くような殺気をまとっていた。
それは長年の戦場を越えてきた者だけが持つ空気だった。
しかも不思議なことに、
数々の戦功を立て、
大名となった今も、
その剣へ向き合う姿勢だけは何一つ変わっていない。
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やがて最後の数人となる。
前へ進み出たのは、
吉田兄弟の兄だった。
ここ数年で著しく腕を上げたと評判の剣士である。
互いに礼を交わす。
空気が変わる。
吉田は迷わず踏み込んだ。
一太刀。
二太刀。
三太刀。
佐野も受け流す。
しかし。
今までとは違う。
吉田の攻めは鋭く、佐野も徐々に間合いを詰められていく。
道場中が息をのんだ。
「押している……?」
ライラが呟く。
その瞬間だった。
佐野は不意に木刀を腰へ引き、
まるで納刀するかのような仕草を見せた。
「!」
吉田の意識が、その一瞬だけ揺らぐ。
その刹那。
佐野の身体が大きく沈み込み、半歩踏み込む。
相手の木刀の内側へ、
身体をひねりながら、
紙一重で潜り抜ける。
そして。
――パシンッ!
乾いた音が響いた。
木刀は吉田の胴を、横一文字に薙いでいた。
吉田は一歩、二歩と後退し、その場で静かに木刀を下ろす。
「参りました。」
道場は静まり返った。
ライラは立ち尽くしたまま動けなかった。
納刀ではなかった。
相手の心を一瞬だけ止めるための誘い。
ほんの一瞬の隙を生み出し、
その一瞬だけで勝負を決める。
上泉伊勢守は静かに目を閉じた。
「……これもまた、剣である。」
その一言だけが、静まり返った道場にゆっくりと響いた。




