先人立たず
剣友会が終わってからも、ライラは毎日のように道場へ通っていた。
柳生宗厳は基本の足運びや間合いを丁寧に教え、
上泉伊勢守は時折一言だけ助言を与える。
その短い一言だけで、ライラの剣は少しずつ変わっていった。
「剣とは腕ではない。」
「まず相手をよく見なさい。」
その教えは、異国の剣士にとって何よりの財産となった。
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ある夕暮れ。
稽古を終えたライラは伊丹城の客間へ戻る。
縁側では少弐冬明が静かに茶を飲んでいた。
「お疲れさまでした。」
少弐は微笑む。
「今日もよく稽古されましたね。」
ライラは隣へ腰を下ろした。
しばらく沈黙が続いたあと、不意に尋ねる。
「少弐様。」
「何でしょう。」
「どうして佐野様と試合をなさらないのですか。」
少弐は少し目を丸くした。
「柳生先生も。」
「上泉先生も。」
「皆、佐野様をとても高く評価しています。」
「少弐様も剣士なのだから、一度くらい立ち会ってみたいとは思われないのですか。」
少弐は茶碗を置くと、小さく笑った。
「思いませんね。」
「まったく?」
「ええ。」
「佐野様は、『先人立たず』と言われるお方です。」
「私など、まさに立ちたくありません。」
ライラは首を傾げた。
「先人立たず……?」
「どういう意味ですか。」
少弐は少し考えながら説明した。
「昔からの言い回しです。」
「意味はいくつかありますが、ここでは――」
「その人の前に立って勝負を挑もうという者がいない。」
「あるいは、立とうと思う者すらいなくなるほど抜きん出ている、という意味でしょう。」
ライラは驚いた。
「そこまで?」
少弐は苦笑する。
「もちろん、誰にも負けないという意味ではありません。」
「ですが。」
「私は自分の腕を知っています。」
「そして佐野様の腕も知っています。」
「勝てる見込みのない勝負を、面子のためだけに挑むほど若くはありません。」
ライラは静かに聞いていた。
少弐は続ける。
「それに。」
「佐野様ご自身も、無意味な立ち合いは望まれません。」
「剣は人を傷つけるもの。」
「見せ物ではない。」
「この前も、そう仰っていましたね。」
ライラは頷く。
あの静かな言葉を思い出す。
少弐は縁側の庭を眺めながら言った。
「本当に強い人ほど、自分の強さを証明したがりません。」
「だから私は、そのような方を尊敬しています。」
ライラはしばらく黙っていた。
やがて小さく笑う。
「少弐様も似ていますね。」
「私は違います。」
少弐はすぐに首を横へ振った。
「私は、自分より強い方を知っているだけです。」
その言葉に気負いも悔しさもなかった。
ただ事実を受け入れる穏やかさだけがあった。
ライラは縁側から夕焼けを眺めながら呟く。
「日本の剣は、不思議ね。」
「勝つことより。」
「自分を知ることを大切にしている。」
少弐は静かに頷いた。
「勝ち負けは、その先にあるものです。」
秋風が庭木を揺らす。
伊丹城の静かな夕暮れの中、ライラは「先人立たず」という一つの言葉とともに、日本の剣の精神を少しだけ理解したような気がした。




