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土佐中村 ― 迷い鯨の話

翌朝。


朝霧の残る港町を、マリア、ライラ、イネスの三人は歩いていた。


目指す先は、昨夜宴席で海坊主の昔話を聞かせてくれた元鯨漁師・庄兵衛翁の家である。


「おや。」


老人は網を繕いながら顔を上げた。


「昨夜の南蛮のお嬢さん方じゃないか。」


マリアは丁寧に頭を下げる。


「昨日のお話が忘れられなくて。」


「もう少し詳しく教えていただけませんか。」


老人は豪快に笑う。


「まさか本気にしたのか。」


「皆、酒の席の法螺話だと言っとったぞ。」


「それでも構いません。」


マリアは真剣な表情で答えた。


「私たちは世界中の生き物を調べています。」


「どんな話にも、何か手掛かりがあるかもしれません。」


老人は少し感心したように頷いた。


「学者というのは変わっとるな。」



---


老人は海を眺めながらゆっくり語り始めた。


「白い鯨のことはさておき……。」


「迷い鯨というものは、本当におる。」


「迷い鯨?」


イネスが旅日記を開く。


「そうじゃ。」


「沖で群れとはぐれたのか、潮に流されたのか。」


「たまに、おかしな場所へ現れる。」


老人は沖を指さした。


「もっと変なこともある。」


「大きな地震の前になると、鯨が浜へ打ち上がることがあるんじゃ。」


ライラが驚く。


「自分から?」


「そう見える。」


老人は頷いた。


「昔から漁師はそう言い伝えてきた。」


「だから皆、浜へ鯨が上がると嫌な胸騒ぎがする。」


しばらく黙って海を眺めると、老人はぽつりと言った。


「わしには難しいことは分からん。」


「じゃがな。」


「この大地の何かが、鯨に悪さをしておる。」


「だから道を見失うのさ。」


マリアはその言葉を静かに聞き留めた。


もちろん、理由までは分からない。


しかし「迷い鯨」が存在するという漁師の経験は、軽々しく否定できるものでもなかった。



---


帰り道。


マリアは旅日記を開き、昨日までの記録へ新しい項目を書き加えていく。


> 土佐の漁師の証言。




> 鯨には本来の生息域を外れ、遠く離れた海へ現れる個体がいるという。




> また、浜へ打ち上がる例も知られている。




さらに彼女は一枚の頁へ鯨の分類を書き始めた。


「ここまで旅をして分かったことだけでも……。」


「鯨と一口に言っても、大きさはさまざま。」


「歯を持つもの。」


「髭を持つもの。」


「沖へ出るもの。」


「沿岸へ来るもの。」


イネスはその横へ何種類もの鯨の姿を描いていく。


ライラは昨夜の話を思い返しながら言った。


「牙のある鯨なんて、本当にいるのかしら。」


マリアは静かに頷いた。


「少なくとも、世界には私たちがまだ見たことのない鯨がいる。」


「そして、北方にはユニコーンの角と呼ばれる牙を持つ海の獣がいるという話もある。」


彼女は少し考え込む。


土佐の暖かな黒潮。


デンマークや、そのさらに北の冷たい海。


両者はあまりにも環境が違いすぎる。


ユニコーンの角の主が土佐まで迷って来るとは、現実には考えにくい。


しかし――。


「可能性を完全に捨てることもできない。」


マリアは旅日記の最後に、短く書き添えた。


> 『世界の海は広く、鯨の種類は想像以上に多い。まだ誰も分類していない種類が存在すると考えても、不自然ではない。白い巨鯨の話は証明できない。しかし、否定する証拠もまた存在しない。ゆえに本記録は参考資料として保存する。』




彼女は本を閉じる。


その記録は、決して「海坊主は実在する」という結論ではなかった。


ただ一人の博物学者として、可能性を記録に残す。


それだけで十分だと、マリアは考えていた。

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