土佐中村の夜 ― 海坊主の正体
土佐中村へ到着した一行は、大掾義康の案内で建設が進む水軍士官学校を見学した。
とはいえ、まだ完成には程遠い。
並ぶのは学生たちの居住区画や食堂、簡素な講義小屋ばかりで、本格的な校舎や訓練施設はこれから建設されるところであった。
「まだ始まったばかりです。」
義康は少し照れくさそうに笑う。
「ですが十年後には、日本一の海軍学校にしてみせます。」
マリアは建設中の船渠を眺めながら頷いた。
「最初は皆、小さな一歩から始まるものよ。」
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その夜。
義康は歓迎の宴を催した。
土佐や四国の海で獲れた魚介が並び、中央には大きな鍋が据えられている。
「これは……。」
イネスが驚く。
「鯨です。」
義康が答えた。
「この辺りでは昔から食べられております。」
マリアは興味深そうに口へ運ぶ。
「なるほど……。」
「牛とも魚とも違う、不思議な味ね。」
宴も進み、酒が回り始めた頃。
義康は一人の老人を呼んだ。
日に焼けた顔に、潮風で白くなった髪。
いかにも海で生きてきた男である。
「こちらは庄兵衛殿。」
「代々、鯨漁を営んできた方です。」
「今は引退し、漁や船について若い者へ教えていただいております。」
老人は豪快に笑う。
「昔話しかできん老人じゃがな。」
周囲の漁師たちも笑った。
「始まったぞ。」
「庄兵衛じいの大法螺だ。」
老人は盃を置き、咳払いを一つした。
「まあ聞け。」
「法螺吹きと言われても構わん。」
「だが、若い頃に見たものだけは本当じゃ。」
宴席が静まる。
「わしらが沖で鯨を追うておった時じゃ。」
「突然、海が盛り上がった。」
「そこへ現れたのは……。」
老人は大きく両手を広げた。
「真っ白な、途方もなく大きな鯨じゃ。」
マリアたちは思わず顔を見合わせる。
「白い……?」
老人は頷く。
「大きすぎて全体は見えん。」
「山が海から出てきたようじゃった。」
「目は真っ赤に血走り。」
「口の横には牙のようなものが生えとった。」
ライラが思わず身を乗り出す。
「牙?」
「そうじゃ。」
「わしも夢だったのかもしれんと思うた。」
「だが、その化け物は――」
老人は声色を低くした。
「ぶぉおぉぉぉっ!
ぶおぉぉぉっ!」
食堂中へ響くような大声を出した。
若い学生たちが笑う。
老人は構わず続ける。
「潮を噴き上げながら、真っ直ぐこちらへ向かって来た。」
「まるで『ここから出て行け』と言うように。」
「いや……。」
「今思えば、わしらを餌にする気じゃったのかもしれん。」
「船へ体当たりしてきおった。」
食堂が静まり返る。
「若い衆の一人が勇ましく銛を投げた。」
「見事に刺さった。」
「じゃが次の瞬間じゃ。」
老人は拳を握る。
「銛も。」
「船も。」
「丸ごと海へ引きずり込まれた。」
誰も口を挟まない。
「助かった者もおった。」
「じゃが何人かは、そのまま溺れて帰らなんだ。」
老人は静かに盃を口へ運んだ。
「土佐には昔から、時折おかしな鯨が迷い込む。」
「南から来たのか。」
「北から来たのか。」
「誰にも分からん。」
「近くの寺では海坊主だの、海の鬼だの言うとる。」
老人は肩をすくめ、大きく笑った。
「じゃが、わしに言わせりゃ――」
「ありゃあ鯨じゃ。」
「とびきりでっかい、鯨よ!」
その一言で食堂中がどっと笑いに包まれた。
「また始まった!」
「庄兵衛じいの海坊主話だ!」
「酒が進むと毎回これじゃ!」
老人も豪快に笑いながら酒を飲み干す。
「信じるも信じんも、お前さん方次第じゃ!」
笑い声が広がる中、マリアだけは静かに考え込んでいた。
「白い巨大な鯨……。」
「牙のようなもの……。」
「北の海から迷ってきた……?」
イネスも旅日記へそっと書き留める。
ライラは宗教的な伝承として興味深そうに呟いた。
「海坊主の正体が、本当に見知らぬ鯨だったとしたら……。」
宴は笑いの中で終わった。
誰もが庄兵衛の得意な昔話として聞き流した。
しかしマリアだけは、その話が胸のどこかへ静かに引っ掛かっていた。
北海のユニコーン。
そして、南の海へ迷い込んだという白い巨鯨。
それらは、まだ見ぬ世界へ続く小さな手掛かりのように思えた。




