道後の湯 ― 傷跡と湯煙の昔語り
日本の風呂の入り方をひと通り説明し終えると、少弐冬明は満足げに頷いた。
「では、作法はお伝えしましたので、私はこれで失礼いたします。」
いかにも用事を思い出したような顔で立ち上がり、そそくさと部屋を出ようとする。
その背中へ、ライラの声が飛んだ。
「少弐様は入らないの?」
少弐の足が止まった。
「……私は、別の湯を借ります。」
「どうして?」
「どうして、と申されましても……。」
ライラは先ほど見学した湯治場の様子を思い出しているらしく、まったく悪びれずに続けた。
「日本では、家族や親しい人が一緒に湯へ入るのでしょう?」
「私たちはもう二か月も一緒に旅をしました。」
マリアまで面白そうに笑う。
「それに先生がいなくなったら、作法を間違えても分からないわ。」
「先ほど全部説明したではありませんか。」
「実際に見ないと分からないこともあります。」
イネスも旅日記を閉じ、穏やかに追い打ちをかけた。
「医学的にも、こちらの湯治文化には興味があります。」
「三人とも……。」
少弐はしばらく抵抗したものの、最後には諦めたように肩を落とした。
「分かりました。ただし、湯に入るだけです。騒がず、作法を守ってください。」
「先生が一番緊張しているように見えるけれど。」
ライラの一言に、マリアとイネスが笑った。
少弐は聞こえなかったふりをした。
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一同は教わったとおり、湯船へ入る前に体の汚れを落とした。
三人は少弐の説明を忠実に守り、湯を汚さぬよう静かに湯船へ身を沈める。
庭の向こうでは紅葉が風に揺れ、そのさらに奥には薄い霞をまとった山並みが続いていた。
「なるほど……。」
マリアは肩まで湯につかりながら息を吐く。
「景色まで含めて、お風呂なのね。」
「温泉によって湯の色や匂いも違うのですか?」
イネスが尋ねると、少弐はようやく落ち着きを取り戻したらしく、いつもの穏やかな口調で答えた。
「違います。肌に良いとされる湯もあれば、傷や疲れ、腹の病に良いと伝わる湯もあります。」
「本当に効くの?」
「すべてが確かとは申せません。しかし、体を温めて休むだけでも、幾らかは違うでしょう。」
船医であるイネスは納得したように頷いた。
「休養そのものにも意味があるものね。」
少弐はさらに、日本各地に名湯があり、評判の高い湯を相撲の番付のように並べて語ることがあると説明した。
「お湯にまで格付けがあるの?」
マリアが驚く。
「日本人は何でも比べるのね。」
「酒、刀、力士、景色、温泉。人が集まれば、どれが一番かという話になります。」
「では道後は?」
ライラが尋ねる。
少弐は少し誇らしげに答えた。
「伊予の者に聞けば、もちろん道後が一番です。」
その言葉に三人は笑った。
少弐は調子に乗ったのか、各地に残る温泉発見の伝説も話し始めた。
傷ついた白鷺が湯に浸かり、元気を取り戻した話。
鹿が傷を癒やしていた場所から湯が見つかった話。
蛇や狐、熊などが、人より先に温泉を知っていたという話。
ライラは目を輝かせた。
「動物が聖なる場所を教える……。」
「宗教的な伝承とよく似ています。」
「湯そのものを祀る社もありますからな。」
「では温泉は、自然の恵みであると同時に神聖な場所でもあるのね。」
ライラはすぐに次の調査候補を見つけたようだった。
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話の途中、ライラは何気なく少弐の肩へ目を向けた。
背中には目立つ傷がほとんどない。
しかし肩から腕にかけては、古い切り傷や矢傷らしき痕が幾つも残っていた。
正面から敵を受け止め、武器を振るう中で負ったような傷である。
ライラは剣士長として、傷の位置から戦い方を想像する癖があった。
「少弐様。」
「何でしょう。」
「その腕の傷は、戦で?」
少弐は自分の肩を見て、何でもないことのように答えた。
「昔のものです。」
「背中には、ほとんど傷がない。」
ライラの指摘に、少弐は少し困った顔をした。
「運が良かったのでしょう。」
しかしライラには、そうは思えなかった。
背を向けなかったというより、逃げるべき時にも踏みとどまった者の傷に見える。
器用に勝ち続けた武人ではない。
何度打たれても、何度押し返されても、勝負を捨てなかった者。
我慢強く、諦めの悪い武人。
それが、彼女の抱いた印象だった。
「あなたは、勝負を簡単には諦めない人なのね。」
「なぜそう思われるのです。」
「傷がそう言っている。」
少弐はしばらく黙っていたが、やがて苦笑した。
「褒められているのか、要領が悪いと言われているのか分かりませんな。」
「褒めているの。」
ライラは迷わず答えた。
「諦めない人でなければ、失った家を再び立てようとは思わないもの。」
少弐の表情から、一瞬だけ笑みが消えた。
しかし彼は何も語らず、借景の山々へ視線を向けた。
マリアとイネスも、それ以上は尋ねなかった。
湯煙の向こうで、少弐という男が背負ってきた歳月の一端だけが、静かに見えた気がした。
やがて少弐は、いつもの調子を取り戻して言った。
「長湯はかえって疲れます。そろそろ上がりましょう。」
ライラは笑う。
「最後まで先生なのね。」
「先生にしたのは皆様でしょう。」
四人の笑い声が、静かな庭へ広がった。
その夜、ライラは自らの記録帳に、少弐について短く書き残した。
> 背に傷なく、腕と肩に古傷多し。
退かぬことを勇とするのではなく、守るべきものがある限り、勝負を捨てぬ男と見える。
温泉で知ったのは、日本の入浴作法だけではなかった。
長い航海をともにした男が、言葉にせず隠していた強さと不器用な優しさもまた、三人の心へ深く刻まれたのであった。




