航海の宴 ― 幸福を招く使者
十月。
琉球を発った「希望」は、秋の穏やかな海を北へ進み、伊予・松山を目指していた。
南風を受けた帆は大きく膨らみ、船は波を切るように静かに進む。
長い航海であった。
琉球から伊予までは決して短い道のりではない。
しかし今回は不思議と退屈しなかった。
昼になると、少弐冬明は甲板へ現れ、片言ながらポルトガル語で挨拶をする。
「ボン・ディーア。」
三人は思わず笑った。
「おしい!」
マリアが笑顔で発音を直す。
「ボン・ジーアよ。」
少弐も苦笑しながら繰り返す。
ライラは腕を組みながら頷いた。
「最初よりずっと上手。」
その代わりに三人は日本語を教わる。
「これは?」
「『ありがとう』です。」
「ありがとう。」
「ありがとう。」
イネスは何度も繰り返しながら旅日記へ書き留めていく。
やがて夕暮れ。
少弐は船員たちを甲板へ集めた。
そこへ家臣が大切そうに酒樽を運んでくる。
マリアが不思議そうに尋ねた。
「これは?」
少弐は静かに笑った。
「坂東から持ってきた日本酒です。」
「皆さんには、この旅で何度も助けていただきました。」
「そのお礼と、これからの旅路の無事を願って、ささやかな宴を開きたいと思います。」
船員たちは歓声を上げる。
盃へ透明な酒が注がれた。
マリアは恐る恐る香りを確かめる。
「葡萄酒とは違う香り……。」
少弐は盃を掲げた。
「皆様との出会いに。」
「そして、これからも続く旅に。」
「乾杯。」
「乾杯!」
盃が触れ合う音が夜の海へ響いた。
日本酒を口にしたマリアは目を丸くする。
「思っていたより柔らかい味ね。」
ライラも頷いた。
「温かくして飲んでも美味しそう。」
イネスは少し赤くなりながら笑う。
「これは旅日記に書かなきゃ。」
穏やかな笑い声が甲板に広がる。
しばらくしてマリアは静かに言った。
「……少弐様。」
「私たちは今まで、いろいろな国を旅してきました。」
「でも、こんなにも各地で歓迎されたことはありません。」
「博多でも。」
「対馬でも。」
「朝鮮でも。」
「琉球でも。」
「どこへ行っても、皆さんが私たちを温かく迎えてくださいました。」
ライラも頷く。
「正直、異国人だから警戒される覚悟をしていたの。」
イネスは少弐を見つめながら微笑む。
「でも、この旅は違った。」
「どこへ行っても、歓迎されてばかり。」
少弐は少し照れたように笑った。
「それは私ではありません。」
「我が主・氏治様が長い時間をかけて信を積み重ねてきたからでしょう。」
しかしマリアは首を横に振る。
「それだけではありません。」
「同じ国書を持っていても、人によって結果は違います。」
「あなたがいたから、安心して話ができたのです。」
少弐は困ったように頭を掻く。
「そんな大したことではありません。」
ライラは笑いながら言った。
「いいえ。」
「少弐様は幸福を招く人なのよ。」
イネスもくすりと笑う。
「行く先々で歓迎されるなんて、そういう星の下に生まれたのでしょうね。」
少弐は思わず吹き出した。
「それでは私、福の神になってしまいます。」
甲板には大きな笑い声が響く。
マリアは盃を掲げた。
「では、幸福を招く使者に。」
ライラとイネスも盃を重ねる。
「乾杯。」
秋の夜空には無数の星が瞬き、「希望」は静かな波間を滑るように進んでいく。
笑い声と盃の音は、遥かな伊予へ向かう船の上で、いつまでも絶えることはなかった。




