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北辰丸、西国へ

兵学館本館の政務所。


氏治は那須、陶、治彦、そして北辰丸船長マリア・アルヴェスを前に、一枚の海図を広げていた。


その視線は九州北西部――対馬と五島列島へ向けられている。


「九月。」


氏治は静かに口を開いた。


「大友へ旧式坂東ガレオンを払い下げる。」


「代価は金ではない。」


筆先が対馬を指す。


「対馬。」


続いて五島列島へ移る。


「そして五島。」


部屋が静まり返る。


氏治はゆっくりと言葉を続けた。


「この二つの島を坂東へ委ねてもらう。」


「交易のためではない。」


「海を守るためだ。」


那須は頷く。


「倭寇を抑え、大陸との航路を管理するには、対馬と五島は欠かせません。」


「その通りだ。」


氏治は海図を巻いた。


「だが九月まで待っていては遅い。」


「今から使者を送り、大友家中へ話を通しておきたい。」


そこで氏治はマリアへ目を向けた。


「マリア・アルヴェス。」


「は。」


「協力してもらえぬか。」


マリアは少し驚いたように目を瞬かせた。


「私が、ですか。」


「そうだ。」


氏治は穏やかに笑う。


「お前は異国の航海士だ。」


「そして大掾が信頼して送り届けた船長でもある。」


「外から見た海の話は、きっと多くの者の興味を引くだろう。」


「北辰丸の航海も、西国の者たちには良い刺激になる。」


マリアは少し考え、やがて柔らかく微笑んだ。


「喜んで。」


「私はまだ日ノ本をほとんど知りません。」


「この国を巡り、人を知り、海を知ることができるなら、それほど嬉しいことはありません。」


氏治は満足そうに頷いた。


「よく引き受けてくれた。」


治彦が補足する。


「大掾から聞いていると思うが、マリアは多少日本語が話せる。」


「日常会話なら十分通じる。」


「通詞も付けるが、それだけでも旅はずっと楽になる。」


氏治はすぐに人選へ移った。


「四国と西国に詳しい者を選ぶ。」


「海路だけではない。」


「土地の事情、人の気質、大名家との縁まで知る者が必要だ。」


那須が一歩前へ出る。


「それでしたら、私が人選いたします。」


「伊予、讃岐、土佐、阿波、それぞれに縁のある者を集めましょう。」


陶も頷いた。


「水軍衆も何人か加えます。」


「瀬戸内は潮の流れ一つで航路が変わります。」


「案内役は欠かせません。」


氏治は頷く。


「よし。」


「使節は大きくする必要はない。」


「北辰丸の速さを生かし、まずは友好の使者として向かう。」


「正式な交渉は九月。」


「それまでに道を作っておく。」


マリアは静かに海図を見つめた。


そこには彼女がまだ一度も訪れたことのない島々が並んでいた。


対馬。


五島。


平戸。


豊後。


瀬戸内海。


どれもポルトガル人航海士の間では名を聞く海である。


彼女の胸は自然と高鳴った。


「北辰丸。」


彼女は小さく呟く。


「新しい航海が始まりますね。」


氏治は笑みを浮かべた。


「ああ。」


「お前には、日ノ本を好きになってもらいたい。」


「そして、その海を見届けてもらう。」


夏の霞ヶ浦を渡る風が、兵学館の窓を静かに吹き抜けた。


こうして北辰丸は、坂東最初の探査艦として、外交使節を乗せ西国への初航海に備え始めたのであった。

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