海軍士官への道
兵学館の資料室。
海図と兵書に囲まれた机を前に、三人は新しい水軍教育について議論を続けていた。
治彦が提案した海賊討伐による実戦教育。
それは魅力的な案だった。
しかし、陶晴賢は静かに首を横へ振った。
「治彦。」
「一つ、気になることがある。」
「何だ?」
「学生に海賊討伐ができるのか。」
部屋が静まり返る。
陶は穏やかな口調のまま続けた。
「教本で学んだばかりの若者を海へ送り出す。」
「経験は積めるだろう。」
「だが、相手は命のやり取りを続けてきた海賊だ。」
「訓練と実戦は違う。」
「学生を死なせるだけでは意味がない。」
那須も深く頷いた。
「確かに、その通りです。」
「水軍は陸軍以上に経験が物を言います。」
「基礎を覚えた者が、いきなり実戦に出るのは危険でしょう。」
治彦も腕を組み、静かに頷いた。
「否定はできない。」
「だからこそ、どう教育するか悩んでいる。」
しばらく考え込んでいた陶は、やがて机の海図へ手を伸ばした。
「ならば。」
「学校を二段階に分けよう。」
「二段階ですか。」
那須が身を乗り出す。
陶は海図の四か所を指差した。
「相馬。」
「鹿島。」
「洲本。」
「伊予。」
「この四つを坂東水軍の実地教育基地とする。」
四国と東国を結ぶ海。
瀬戸内海。
外洋。
北方航路。
それぞれ異なる海域を担当する水軍拠点である。
「まず水軍を志す者は基礎教育を受ける。」
「航海術。」
「操船。」
「測量。」
「天測。」
「潮流。」
「造船。」
「兵站。」
「砲術。」
「水夫として必要な知識を徹底して学ぶ。」
陶はさらに続けた。
「卒業した者は、そこで終わりではない。」
「必ず現場へ配属する。」
相馬では北方航路の警備。
鹿島では外洋航海と沿岸防衛。
洲本では瀬戸内の潮流と船団運動。
伊予では豊後水道や南海航路、遠洋航海。
「数年。」
「現役として海を知る。」
「交易船を護衛し。」
「沿岸を警備し。」
「海賊を追い。」
「嵐を越える。」
「まず海で生きることを覚えさせる。」
治彦は思わず笑みを浮かべた。
「なるほど。」
「学校だけでは海軍は育たない。」
「現場が第二の学校になるわけか。」
「そうだ。」
陶は頷いた。
「そして最後だ。」
今度は土佐・中村を指差した。
「中村には別の学校を置く。」
「上級水軍学校。」
その言葉に那須は目を見開いた。
「上級……。」
「ここへ入れるのは現役だけ。」
「しかも志願すれば入れるものではない。」
「各基地の将、あるいは直属の上官から推薦された者だけを受け入れる。」
部屋の空気が変わった。
治彦は静かにその構想を聞いている。
陶は続けた。
「ここでは水夫を育てない。」
「海軍士官を育てる。」
「艦隊運動。」
「海戦指揮。」
「砲撃戦術。」
「作戦立案。」
「航路研究。」
「海戦記録の分析。」
「そして実戦演習。」
「海を知る者だからこそ理解できる学問だけを教える。」
那須は次第に全体像を理解していった。
「つまり。」
「基礎教育。」
「現場勤務。」
「推薦。」
「そして上級教育。」
「そういう流れですね。」
陶は満足そうに頷いた。
「そうだ。」
「経験のない者へ高度な戦術を教えても意味はない。」
「現場を知って初めて、戦術は生きる。」
治彦は机へ新しい紙を広げた。
一本の線を引く。
左に「基礎教育」。
中央に「現場」。
右に「上級水軍学校」。
その下へ四つの名前を書き込んだ。
相馬。
鹿島。
洲本。
伊予。
そして最後に大きく一つ。
土佐・中村上級水軍学校。
「これなら。」
治彦は静かに言った。
「海賊討伐も学生ではなく、現場を経験した士官候補による実戦教育として組み込める。」
「訓練でもあり。」
「実戦でもある。」
「その記録はすべて学校へ持ち帰り、新たな教材となる。」
那須は図を見つめながら、静かに息を吐いた。
「兵学館が武士を育てる学校なら。」
「中村は海軍士官を育てる学校。」
「そして相馬、鹿島、洲本、伊予が、その実習艦隊となる。」
陶は満足そうに笑った。
「ようやく形になってきたな。」
治彦も筆を置き、大きく頷く。
「これなら学校だけでは終わらない。」
「教育。」
「現場。」
「研究。」
「すべてが一つにつながる。」
窓の外では、兵学館の若者たちが湖上で小舟を操っていた。
その中から未来の水軍士官が育ち、やがて四つの海へ散り、それぞれの経験を携えて中村へ戻る。
その日から、日本初の体系的な海軍士官育成制度は、静かにその姿を現し始めた。




