海の教官
資料室に静寂が戻る。
机の上には、日本、中国、西洋、それぞれの兵書が積み重なっていた。
誰もが海戦の記録を求めてきた。
だが、決定的な答えはどこにもない。
その時だった。
治彦が何かを思い出したように指を鳴らした。
「……一つ、方法がある。」
那須と陶が同時に顔を上げる。
「何でしょう。」
治彦は少し言いづらそうに腕を組んだ。
「これはあまり誉められた話ではない。」
「だが、実戦経験を積むという意味では、一番現実的かもしれない。」
陶が続きを促す。
「聞こう。」
治彦はゆっくりと言葉を選んだ。
「小田は昔、倭寇を帰順させた。」
那須は頷く。
かつて東国へ流れ着いた倭寇の一部は、小田家の保護下に入り、造船や航海、交易などの技術者として登用された。
農民となった者もいる。
町人となった者もいる。
彼らは坂東の発展に少なからず貢献していた。
「だが、西国や大陸方面では、今も倭寇の噂が絶えない。」
治彦は海図を指し示す。
対馬。
五島。
浙江沿岸。
福建。
朝鮮南岸。
そこには倭寇の活動が記されていた。
「もちろん、昔のように皆が海賊というわけではない。」
「商人もいれば、密貿易をする者もいる。」
「戦乱で流れ着いた浪人もいる。」
「だが、その中には間違いなく海で戦い続けている者たちもいる。」
陶は静かに言った。
「つまり。」
「彼らには経験がある。」
「そうだ。」
治彦は頷いた。
「私たちは資料が少ないと嘆いている。」
「だが、生きた資料なら海の上を歩いている。」
那須は考え込んだ。
「彼らを登用する……ですか。」
「いや。」
治彦は首を横に振った。
「登用できる者は、もちろん登用する。」
「技術者も、航海士も、造船職人も欲しい。」
「それは昔と変わらない。」
少し間を置いて、治彦は苦笑した。
「だが、申し訳ない言い方になるが……。」
「海戦の経験値として、中村水軍士官学校の練習相手になってもらうのはどうだ。」
部屋が静まり返る。
陶は腕を組みながら笑った。
「なるほど。」
「海賊退治そのものを教育へ組み込むわけか。」
「そう。」
治彦は頷く。
「訓練だけでは限界がある。」
「だが、いきなり外国艦隊と戦うのも無謀だ。」
「だから小規模な海賊船団を相手に、索敵、追跡、連携、包囲、拿捕まで一通り経験させる。」
「勝てば終わりではない。」
「どう接近したか。」
「どう包囲したか。」
「風はどう読んだか。」
「敵はどう逃げようとしたか。」
「すべて記録し、兵学館へ持ち帰る。」
那須の表情が明るくなる。
「実戦を教材にする……。」
「それなら海戦の記録も自然に積み重なります。」
治彦は満足そうに頷いた。
「その通り。」
「ただし、忘れてはいけないことがある。」
那須と陶は姿勢を正した。
「相手は人間だ。」
「降伏した者まで討ち取る必要はない。」
「帰順を望む者は受け入れる。」
「航海や造船に長けた者は登用する。」
「罪を改める道を用意することも大切だ。」
陶も静かに続けた。
「そして最後まで抵抗する者だけを制圧する。」
「そういうことだ。」
治彦は海図を巻きながら言った。
「海戦を学ぶ学校なら、海そのものを教室にしなければならない。」
「倭寇もまた、その教室で出会う現実の相手だ。」
那須は静かに立ち上がった。
「中村水軍士官学校。」
「教本だけではなく、実戦もまた授業にする。」
「その経験を記録し、分析し、次の世代へ伝える。」
治彦は笑みを浮かべた。
「そうして百戦分の記録が集まった頃には、世界のどこにもない海戦の兵法書が、中村には並んでいるはずだ。」
三人の視線は、窓の外に広がる湖面へ向けられた。
静かな水面の先には、未来の海軍を育てる学び舎と、その最初の教科書が、まだ白紙のまま待っていた。




