海戦は、まだ始まったばかり
兵学館の資料室。
机いっぱいに広げられた海図、兵書、船の図面を前に、那須資忠は静かに資料へ目を通していた。
しかし、その量は思っていたより遥かに少ない。
陸戦の記録が山のように積まれているのに対し、海戦の記録はわずか数冊の帳面と巻物だけである。
那須は一冊を閉じた。
「治彦殿。」
「海戦の資料は、これだけなのですか。」
治彦は苦笑しながら頷いた。
「残念だが、そうだ。」
「理由はいくつかある。」
治彦は海図を広げながら話し始めた。
「まず、海戦そのものが陸戦に比べて圧倒的に少ない。」
戦国の戦は城を巡る。
野戦も籠城も補給戦も、ほとんどが陸の戦場で行われる。
一方、海軍の役割は輸送、護衛、兵站、上陸支援が中心だった。
船団同士が真正面から激突することは、思っているほど多くない。
「そしてもう一つ。」
治彦は別の帳面を開いた。
「海で戦う相手の多くが、村上や松浦のような海賊衆だ。」
国家同士の戦ではなく、交易や護衛、略奪を巡る争いである。
「だから記録が残らない。」
「勝った側だけが話を残し、負けた船は海へ沈む。」
「誰も見ていなければ、その戦いは最初から無かったことになる。」
那須は静かに頷いた。
陸ならば城が残る。
城主も家臣も記録を書く。
しかし海には何も残らない。
治彦は資料を閉じた。
「つまり海戦は、経験が積み重なりにくい。」
「記録が少ない以上、戦術も体系化されにくい。」
陶晴賢は一枚の安宅船の図面を手に取った。
「それに日本では、海戦と言っても結局は白兵戦だ。」
治彦も頷く。
「その通り。」
図面には巨大な安宅船が描かれている。
高い舷側。
櫓。
矢狭間。
大勢の兵が乗り込める構造。
「日本の主力は安宅船。」
「敵船へ近づき、縄を掛け、乗り移る。」
「そして槍、薙刀、刀、弓、鉄砲で敵を倒す。」
「最後に勝敗を決めるのは、人間同士の白兵戦だ。」
陶は図面を眺めながら笑った。
「船とは兵を運ぶ城というわけだ。」
「まさしく陸戦の延長。」
「そう。」
治彦は頷いた。
「だから日本の兵法書も、船の動かし方より接舷後の戦い方ばかり書いてある。」
那須は静かに言う。
「海の上で戦う陸軍……。」
「そんなところだ。」
治彦は今度は一冊の洋書を机へ置いた。
「だが、西洋も昔から違ったわけではない。」
広げられた挿絵には、細長い軍船が幾列にも並んでいた。
「古代ギリシャ。」
「古代ローマ。」
「彼らの主力はガレー船だ。」
櫂を並べ、多くの漕ぎ手で進む細長い船。
船首には青銅の衝角が突き出している。
治彦はそこを指差した。
「これが衝角。」
「敵船へ体当たりし、船腹を破る武器だ。」
陶は興味深そうに図を眺める。
「なるほど。」
「これが有名な衝角戦術か。」
「そう。」
「しかし、それでも最後は白兵戦だった。」
敵船へ体当たりする。
あるいは横付けする。
兵士が飛び移る。
そして剣と槍で勝敗を決める。
「つまり、西洋も古代は日本と本質的には変わらない。」
「違うのは衝角という戦術が加わった程度だ。」
那須は少し驚いた表情を見せた。
「では、西洋だけが昔から海戦を完成させていたわけではない。」
「その通り。」
治彦はさらに別の図を広げた。
そこには側面へ何十門もの砲を並べたポルトガル船やスペイン船が描かれている。
「今、西洋では火器と大砲が急速に発達している。」
「大型帆船も増えている。」
「だが。」
治彦は少し間を置いた。
「彼ら自身も、まだ海戦の正解を知らない。」
那須と陶は顔を見合わせた。
「艦隊をどう動かすのか。」
「砲撃をどう使うのか。」
「接舷と砲撃をどう組み合わせるのか。」
「まだ誰も完成させていない。」
「今この時代に試行錯誤している最中なんだ。」
陶は腕を組み、大きく頷いた。
「つまり西洋にも完成形はない。」
「だから真似をすれば済む話でもない。」
「そうだ。」
治彦は静かに笑った。
「海戦という考え方そのものが、まだ始まったばかりなんだ。」
そう言うと、今度は机の端に積まれていた分厚い漢籍へ手を伸ばいた。
「ただ、一つ期待しているものがある。」
「中国文献だ。」
那須が聞き返す。
「中国ですか。」
「中国は海洋国家とは言えない。」
「だが王朝が長く続き、何より記録魔だ。」
治彦は苦笑する。
「戦えば書く。」
「負けても書く。」
「兵站も河川も楼船も火船も、とにかく残す。」
「記録の量だけなら、日本も西洋もかなわない。」
陶も納得したように頷いた。
「なるほど。」
「戦い方ではなく、資料の山か。」
「そう。」
「そこから何か見つかるかもしれない。」
「いや、見つけなければならない。」
部屋は静まり返った。
那須はゆっくりと漢籍へ手を伸ばく。
「中村水軍士官学校。」
「そこで教えるべきものは、完成した海戦術ではありません。」
「まだ誰も知らない海戦を、自ら考える力です。」
治彦は嬉しそうに笑った。
「その答えに辿り着いたなら十分だ。」
「日本にも、西洋にも、中国にも、まだ完成した海軍はない。」
「ならば中村で、それを築けばいい。」
窓の外では、兵学館の生徒たちが湖で小舟を操る訓練を続けていた。
誰もまだ知らない未来の海戦。
その歴史は、これから生まれようとしていた。




