副寮長は出世する
七月。
中村水軍士官学校設立の準備のため、那須資忠は久方ぶりに霞浦の兵学館を訪れた。
同行したのは、讃岐を預かる陶晴賢。
そして二人を案内するのは、兵学館創設者の一人である治彦だった。
校門をくぐると、朝の号令が校内に響く。
生徒たちは乱れることなく整列し、各教場へ向かって歩いていく。
剣術、弓術、鉄砲、築城、兵站、測量。
どの教場も静かな熱気に包まれていた。
その様子を眺めながら、陶がぽつりと漏らした。
「……変わったな。」
那須も頷く。
「ええ。」
「良くも悪くも、私たちがいた頃より学校らしくなりました。」
治彦は笑みを浮かべる。
「そう見えるのは当然だ。」
三人は並んで歩き始めた。
「兵学館を創設した頃は、とにかく人が足りなかった。」
「だから年齢も身分も問わず受け入れた。」
十代の少年。
戦場帰りの壮年武士。
浪人。
町人の子。
農家の次男。
兵法に興味さえあれば誰でも門を叩けた。
「だから教室も寮も実に賑やかだった。」
治彦は懐かしそうに笑う。
「兵法の議論で夜更かしする者。」
「教官と真っ向から言い争う者。」
「勝手に武器を改良して怒られる者。」
「湖へ船を浮かべて実験する者。」
陶は豪快に笑った。
「今思えば、まともな学生などおらなんだな。」
「一期生は特にな。」
治彦も笑う。
「学校というより兵法好きの寄り合い所だった。」
三人は思わず笑い合った。
しかし今は違う。
生徒の年齢はほぼ揃い、教官の指示に従って規律正しく生活している。
教育課程も整理され、卒業後の進路も確立された。
卒業生が教官として戻る姿まで見られるようになった。
治彦は校舎を見渡した。
「創設から数年経って、兵学館という名前が知られるようになった。」
「卒業生が各地で活躍し、親も安心して子を預けられる。」
「だから今は、ある程度年齢を揃えて教育できる。」
「兵学館はようやく、本当の意味で学校になったんだ。」
那須は深く頷いた。
「中村水軍士官学校も同じでしょうね。」
「創設当初は混乱して当然。」
「完成した今の兵学館だけ真似をしても意味はありません。」
「その通り。」
治彦は嬉しそうに笑った。
「学校にも若い頃がある。」
「それを知るために、お前たちには来てもらった。」
三人はそのまま寮舎の方へ歩いていく。
朱雀。
青龍。
白虎。
玄武。
懐かしい寮名を眺めていると、治彦が思い出したように笑った。
「そうそう。」
「最近、学生の間で妙な噂が流れている。」
陶が眉を上げる。
「噂?」
「副寮長になると出世する、だ。」
那須は思わず笑った。
「そんな噂があるのですか。」
治彦は指を一本立てた。
「まず一人目。」
「朱雀寮副寮長、佐野昌綱。」
兵学館卒業後、京で数々の戦を潜り抜け、今では摂津を預かる名将となった。
続いて二本目の指を立てる。
「二人目。」
「玄武寮副寮長、館林義綱。」
館林家から新田家を継ぎ、今では新田義綱として新田を束ねる重臣となっている。
最後に治彦は那須を指差した。
「そして三人目。」
「白虎寮副寮長、那須資忠。」
「四国へ渡り、讃岐・阿波を支え、今は中村水軍士官学校を築こうとしている。」
治彦は肩をすくめた。
「佐野、館林改め新田、那須。」
「こう並べると、副寮長は出世すると言われても否定しづらい。」
陶は腹を抱えて笑った。
「ははは!」
「寮長より副寮長の方が縁起が良いとは!」
「妙な伝統ができたものだ。」
那須も苦笑する。
「私たちの頃には考えもしませんでした。」
治彦も笑いながら続けた。
「最近じゃ、『寮長より副寮長を目指せ』なんて本気で言う学生までいる。」
「もっとも、あながち間違いでもない。」
陶が興味深そうに聞き返す。
「ほう。」
「副寮長は寮長を支えながら後輩もまとめる。」
「上にも下にも気を配る役だから、人が育つ。」
「将になる前に副将を経験するようなものだ。」
陶は腕を組み、静かに頷いた。
「なるほど。」
「そう考えると、縁起ではなく経験が人を育てているのだな。」
その時、近くを歩いていた若い学生たちの声が聞こえてきた。
「見ろ、那須様だ。」
「白虎の副寮長だった方だぞ。」
「佐野様も副寮長。」
「新田様も副寮長。」
一人の少年が真剣な顔で言った。
「俺、副寮長を目指す。」
隣の友人がすかさず肩を叩いた。
「その前に入試を通れ。」
周囲から笑いが起こる。
それを聞いた那須たちも思わず笑みをこぼした。
兵学館は変わった。
創設当初の混沌は薄れ、制度は整い、多くの若者を育てる学び舎となった。
だが、そこで生まれた伝説や思い出は、今もなお後輩たちの間に語り継がれている。
那須は静かに校舎を見上げる。
「中村にも、いつかこんな伝統が生まれる学校を作りたいものです。」
治彦は満足そうに頷いた。
「そのためには――最初の一期生が少しくらい変わり者でも、我慢することだな。」
三人の笑い声が、夏空の兵学館にいつまでも響いていた。




