一五六九年五月 坂東フリガッタ、その胎動
一五六九年五月 坂東フリガッタ、その胎動
五月。
初夏の風が紀伊の海を渡る頃、那須は雑賀港を訪れていた。
目的は、新たな軍船――坂東フリガッタの建造視察である。
港へ足を踏み入れると、鋸の音、槌の音、職人たちの掛け声が絶え間なく響いていた。
巨大な船台には、まだ骨組みだけの船が何隻も並んでいる。
その一隻の前で待っていたのは、大掾義康であった。
「ようこそ、那須殿。」
「ちょうど良い時に来られました。」
大掾は笑みを浮かべると、建造途中の船へ案内した。
「完成してしまえば見えぬ部分です。」
「今しかご覧いただけません。」
那須は梯子を上り、まだ板の張られていない船体の中へ足を踏み入れる。
まるで巨大な獣の肋骨の中に立っているようだった。
太い竜骨が真っ直ぐ船首から船尾へ伸び、その左右へ肋材が規則正しく組み上げられている。
「これが船の背骨です。」
大掾は竜骨を軽く叩いた。
「ここが狂えば、どれほど腕の良い船大工でも真っ直ぐには走りません。」
那須は静かに頷く。
船底は旧式坂東ガレオンより細く、長く伸びている。
「ずいぶん細身ですね。」
「はい。」
大掾は笑った。
「速度を優先しております。」
「和船を追い、和船から逃げる。」
「そのためには幅より長さが必要でした。」
さらに船腹を覗くと、小型砲を据える砲門が等間隔に設けられていた。
しかし旧式坂東ガレオンほど大きくはない。
「大型砲は積みません。」
「日本沿岸では過剰です。」
「その代わり、小型砲を素早く撃ち続けます。」
那須は興味深そうに木組みを見回した。
船倉は軍船としては十分な広さを持つ一方、兵室は驚くほど簡素である。
「兵は寝心地より速さです。」
「港へ着けば陸で休めばよい。」
大掾は迷いなく答えた。
甲板へ出ると、まだマストは立てられていなかった。
しかし基部を見るだけで、その高さが従来の軍船を上回ることが分かる。
「帆を大きく取るのですか。」
「ええ。」
「風さえあれば、旧式坂東ガレオンでは追いつけません。」
那須は船台に並ぶ骨組みを見渡した。
未完成だからこそ見える構造。
職人たちが一本一本木を削り、縄を締め、寸分違わず組み上げていく。
完成した船では決して見ることのできない光景であった。
「見事です。」
那須は感嘆した。
「戦とは、戦場だけで行われるものではありませんな。」
大掾はゆっくりとうなずく。
「勝敗は、この一本の木を削るところから始まっております。」
その言葉を聞きながら、那須は静かに建造中の坂東フリガッタを見上げた。
まだ帆も張られていない。
まだ海も知らない。
だがその骨組みには、坂東が目指す新たな海の時代が、確かに息づいていた。




