桜花の盟約 ―― 道後温泉にて海の未来を語る
四月――。
伊予にもようやく春が訪れた。
湯築城の桜は満開となり、山々から吹き下ろす風は花びらを乗せて道後の湯煙へと運んでいく。
この日、那須は束の間の休息として、道後温泉で花見を催した。
招かれたのは、住吉晴賢――かつて西国一の名将と呼ばれた陶晴賢である。
二人は湯に身を沈めながら、露天風呂の向こうに広がる桜を眺めていた。
しばらくは戦の話もなく、湯の音だけが響く。
やがて那須が静かに口を開いた。
「ようやく伊予も春らしくなったな。」
陶は桜を見上げ、小さく笑う。
「戦ばかりでは、人は春を忘れます。」
「だからこそ、今日は軍議ではない。」
「花見ですか。」
「いや。」
那須は盃を持ち上げた。
「未来の話だ。」
湯から上がると二人は桜の下へ席を移した。
道後の湯煙と満開の桜。
その向こうには穏やかな瀬戸内海が青く輝いている。
那須が問う。
「西はどう動く。」
陶は地面に小枝で海図を描き始めた。
「中国は毛利がまとめるでしょう。」
安芸を指す。
「元就公がおられる限り、西国最大の勢力です。」
さらに九州へ枝を伸ばす。
「九州はいずれ、大友と島津が覇を競います。」
「どちらが勝つ。」
陶は静かに首を振った。
「勝つ者はいても、無傷の者はいません。」
「大友は交易で栄え、島津は軍で伸びる。」
「しかし戦えば双方とも疲弊します。」
那須は腕を組む。
「では我らはどう動く。」
陶はしばらく黙る。
そして海図の上に三つの丸を描いた。
「戦が始まる前に、楔を打ち込みます。」
「楔。」
「九州へではありません。」
陶は丸を指した。
「対馬。」
さらにもう一つ。
「五島。」
最後に南へ。
「奄美。」
家臣たちは思わず顔を見合わせた。
那須も少し驚いたように尋ねる。
「島を攻めるのか。」
陶は笑った。
「攻めません。」
「では。」
「買うのです。」
「買う?」
「坂東には旧式となった坂東ガレオンがあります。」
那須は頷く。
「坂東では既に新型坂東ガレオンの建造が進み、さらに坂東フリガッタへの移行も始まる。」
「旧式は役目を終えつつある。」
陶は深く頷いた。
「ならば、その旧式坂東ガレオン十五隻を大友へ譲りましょう。」
「十五隻もか。」
「惜しくはありません。」
陶は断言した。
「船はまた造れます。」
「しかし海の拠点は百年待っても得られぬことがあります。」
那須は黙って耳を傾けた。
「代価は黄金ではありません。」
「望むのは、大友の持つ外交力です。」
陶は対馬を指す。
「宗氏へ働きかけてもらい、坂東との友好と寄港を認めさせる。」
五島へ枝を移す。
「五島にも同じく坂東船の優先寄港を認めさせる。」
そして南を指した。
「奄美との交易路も開く。」
「島を奪うのではない。」
「島々が坂東を宗主として敬い、港を貸し、交易を優先するだけで十分です。」
那須は静かに笑う。
「銭ではなく海を受け取るか。」
「ええ。」
陶は桜を見上げた。
「金は使えばなくなります。」
「しかし港は、子や孫、そのまた先まで富を生み続けます。」
風が吹き、桜吹雪が二人の間を流れていく。
那須は盃を掲げた。
「戦で国を奪うのではない。」
陶もまた盃を合わせる。
「交易で海を結ぶ。」
盃が静かに鳴った。
道後温泉の桜の下で交わされたこの盟約は、後に坂東が領土ではなく航路を求め、西国と南海を結ぶ海洋国家への歩みを進める、大きな転機となった。




