天下人と国造り
障子が静かに閉まる。
広い部屋には織田信長と佐野昌綱、二人だけが残った。
信長は佐野を見つめ、静かに口を開く。
「佐野。」
「そなたは本当に変わった男よ。」
佐野は微かに笑った。
「よく言われます。」
信長も笑う。
「領地も望まぬ。」
「官位も望まぬ。」
「黄金すら望まぬ。」
「挙げ句、公方まで余へ渡して貸しにすると申す。」
「何を考えておる。」
佐野は静かに答えた。
「私は天下を欲しておりませぬ。」
信長は眉を上げる。
「天下が欲しくない。」
「武士がそのようなことを申すか。」
「はい。」
「私が欲しいのは、人が安心して暮らせる国です。」
「国が富み、人が学び、商いが栄えれば、それで十分でございます。」
信長はしばらく黙っていた。
やがて小さく笑う。
「なるほど。」
「ようやく分かった。」
「そなたは余の敵ではない。」
佐野は何も答えない。
信長は地図へ目を向ける。
「余は国を広げる。」
「そなたは国を豊かにする。」
「欲するものが違う。」
「ならば今は争う理由もあるまい。」
佐野は静かに頷いた。
「約定を違えぬ限り、私も織田殿を敵とはいたしませぬ。」
信長は立ち上がる。
「借りは忘れぬ。」
「いずれ返そう。」
佐野も立ち上がり、一礼した。
「その時を楽しみにしております。」
二人は言葉少なに別れた。
やがて佐野が岐阜城を去ると、信長は近習へ命じた。
「秀吉、光秀、勝家を呼べ。」
ほどなく三人が広間へ集まる。
信長は開口一番に尋ねた。
「佐野昌綱をどう見る。」
最初に口を開いたのは羽柴秀吉だった。
「殿。」
「私には理解できませぬ。」
「領地も官位も望まず、公方様まで差し出して何も求めぬ。」
「武士なら天下を目指してこそ武士。」
「欲がない者ほど、何を考えているか分かりませぬ。」
信長は黙って聞いていた。
続いて明智光秀が静かに言う。
「私は高く評価いたします。」
「旧足利方、細川、本願寺、筒井。」
「本来なら互いに争う勢力をまとめ上げ、一つの秩序を築きました。」
「武だけではなく政にも優れた人物でございます。」
最後に柴田勝家が腕を組んだまま頷く。
「武人としても一流です。」
「戦うべき時に戦い、退くべき時には退く。」
「考え方は我らとは違いますが、筋は通っております。」
「信用できる武将でしょう。」
三人の意見を聞き終えた信長は、静かに笑った。
「秀吉。」
「おぬしには、あの男は分かるまい。」
秀吉は首を傾げる。
信長は窓の外を眺めながら続けた。
「あれは天下を欲しておらぬ。」
「だからこそ、余と共存できる。」
「余は国を広げる。」
「あれは広げた国を豊かにする。」
「敵ではない。」
そこで信長は一度言葉を切った。
「……だが。」
「余の後を継ぐ者には、あの男は理解できぬかもしれんな。」
秀吉はその言葉の意味を量りかねた。
しかし明智と柴田だけは、静かに頷いていた。
乱世はなお続く。
だがこの日、岐阜城では二人の英雄が互いの道を認め合い、それぞれ異なる未来を目指して歩み始めていた。




