江戸頼家との邂逅
恋瀬川橋城の普請が始まってほどなく、小田氏治は佐竹家へ一通の書状を送った。
「江戸頼家殿へ私的な挨拶に赴きたい。勧誘の意はなく、少人数にて参上する。」
戦を終えたばかりの申し出に家臣たちは眉をひそめたが、佐竹方はこれを許した。
江戸頼家が坂東藤原流の一族でありながら、佐竹家中では冷遇され、決して重用されていないことは氏治も承知していた。だからこそ、堂々と許しを得て会うことに意味があった。
館へ着くと、頼家は自ら門前まで出迎えた。
「小田殿が我が館へ来られるとは、世も変わったものです。」
「敵だからこそ、礼は尽くしたかったのです。」
氏治は穏やかに頭を下げる。
二人は座敷へ通され、静かに向かい合った。
しばらく世間話を交わした後、氏治は切り出した。
「先の小貝川の戦、貴殿のお姿は遠目ながら拝見しておりました。」
頼家は少し驚いたように目を細める。
「私をご覧になっていたのですか。」
「ええ。兵を落ち着いてまとめる姿は見事でした。」
その一言に、頼家は何も返せなかった。
佐竹家で、そのように評されたことは一度もなかったからである。
氏治は懐から一本の巻物を取り出した。
「これは坂東藤原流掟条。」
頼家の目が大きく見開かれる。
八田知家より伝わる、一門の礎。
坂東藤原流にとって何より重い掟であった。
「坂東藤原流は、戦場では敵味方に分かれても、その誇りまで失うものではありません。」
頼家は震える手で巻物を受け取った。
続いて氏治はもう一本の巻物を差し出す。
「こちらは我らの軍旗『雷霞一撃』の写しです。」
「……私に。」
「ええ。」
氏治は静かに頷いた。
「勘違いなさらぬよう申し上げます。」
頼家は氏治を見る。
「私は貴殿を誘いに参ったのではありません。」
その言葉に偽りは感じられなかった。
「近いうちに佐竹との本戦が始まります。」
氏治は穏やかな声で続ける。
「私は佐竹を迎え撃ち、必ず勝ちます。」
その口調には、不思議なほど驕りがなかった。
「その時、貴殿も佐竹方として戦われるでしょう。」
頼家は静かに頷く。
「ですからお願いがあります。」
氏治は真っ直ぐ頼家を見据えた。
「どうかご武運を。そして、生き延びてください。」
敵将から贈られるには、あまりにも奇妙な言葉だった。
座が静まり返る。
やがて陳猛哲が一つの箱を差し出した。
中には丁寧に書き写された漢籍が収められている。
頼家は思わず息をのんだ。
「これは……。」
「以前より求めておられた書と聞きました。」
氏治が微笑む。
「陳が写したものです。」
「これほどの写本を……。」
頼家は一冊を開き、丁寧な筆跡を見つめた。
陳は笑って言う。
「学問とは、閉じ込めるものではありません。」
別れの時。
頼家は門前まで氏治たちを見送った。
そして静かに口を開く。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。」
『論語』の一節。
敵であっても礼を尽くした氏治へ贈る言葉だった。
陳猛哲は微笑み、中国語で応えた。
「天時は地利に如かず、地利は人和に如かず。」
『孟子』の言葉である。
頼家は思わず笑みを浮かべた。
「孟子まで嗜まれますか。」
陳は軽く一礼する。
頼家は夕空を見上げ、最後に李白の詩を吟じた。
「桃花潭水深千尺、不及汪倫送我情。」
氏治は振り返ることなく右手を軽く上げる。
「また戦場で。」
「その時まで、ご武運を。」
互いに礼を交わし、氏治一行は夕暮れの道へと消えていった。
その姿が見えなくなるまで見送った頼家は、静かに部屋へ戻った。
障子を閉めると、誰もいない座敷へ腰を下ろす。
目の前には、今日残された品々が並んでいた。
坂東藤原流掟条。
軍旗「雷霞一撃」の写し。
そして陳猛哲が筆を執った漢籍の写本。
頼家は一冊を手に取り、ゆっくりと頁をめくる。
美しい筆跡。
惜しみなく注がれた労力。
それらは敵将から贈られたものとは思えなかった。
頼家は天井を見上げ、小さく息を吐く。
「……なぜだ。」
佐竹家では、坂東藤原流の血を引くというだけで常に疑われる。
功を立てても警戒され、危険な戦場へ回される。
己が使い潰される駒であることくらい、頼家自身が一番よく知っていた。
それなのに。
敵である氏治は、自分の才を認め、祖の掟を返し、軍旗を託し、命まで案じた。
『生き延びてください。』
その一言が胸から離れない。
味方は己を駒として扱う。
敵は己を一人の武人として敬う。
頼家は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、中国の古の名軍師たち。
主君に礼をもって迎えられ、その信に応えて天下へ智を尽くした者たち。
「もし……私にも、そのような主君がいたなら。」
思わず漏れた独り言に、頼家は自嘲気味に笑った。
「何を考えている。」
そう言って首を振る。
まだ自分は佐竹の家臣である。
その事実は変わらない。
しかしその夜、江戸頼家は漢籍を抱えながら、いつまでも天井を見つめ続けていた。




