岡豊の冬 ― 戦を終わらせる者たち
講和が結ばれても、戦はすぐには終わらなかった。
久万高原の激戦は双方に大きな傷跡を残し、野にはいまだ負傷者があふれ、土佐各地には焼け落ちた家々と荒れ果てた田畑が広がっていた。
那須は戦場の指揮を陶に委ねていた時とは打って変わり、自ら戦後の救護を指揮した。
岡豊城の内外には簡易の野戦病院が設けられ、味方だけでなく長宗我部方の負傷兵も次々と運び込まれる。松永へは急ぎ使者が送られ、
「医師、薬師、そして住職を四国へ送っていただきたい。」
と援軍ではなく救護を求めた。
ほどなく堺より医師や薬師、僧侶たちが到着し、薬や包帯、経典が運び込まれる。昼夜を問わず治療が続けられ、亡くなった者には敵味方の別なく読経が捧げられた。
一方、陶晴賢は松永を頼り、堺との交易路を確保した。
米、塩、味噌、干魚、衣類。
運ばれてきた物資は軍の兵糧としてではなく、まず土佐の民へと分け与えられた。
「勝った者ほど、先に与えねばならぬ。」
陶はそう語り、自ら荷を降ろす兵に交じって汗を流した。
その姿を見た将兵たちは、自然と同じように働き始める。
これに対し、長宗我部勢もまた静かに応じた。
元親は命令を下さなかった。
ただ、自らが野戦病院へ足を運び、負傷兵を担ぎ、亡き者を弔い、民へ米俵を運んだ。
主君が黙って働く姿を見た家臣たちは言葉なく後に続き、昨日まで刃を交えた者同士が、今日は同じ担架を担ぎ、同じ鍋の粥を分け合っていた。
敵も味方も、その境は日を追うごとに薄れていく。
冬が深まる頃には、岡豊から聞こえる音は鬨の声ではなく、槌の音と人々の笑い声へと変わっていた。
そんな日々が続く中、坂東より氏治の使者が岡豊へ到着する。
使者は一通の書状を那須へ差し出した。
那須は静かに封を切る。
そこに記されていた言葉は、わずか一文であった。
> 「四国戦後の統治、その一切を那須に一任する。」
那須は書状を丁寧に畳み、しばらく黙って空を見上げた。
その責の重さを誰よりも理解していたからである。
やがて年の瀬が近づく。
救護も復旧もひとまず落ち着き、各地の被害もおおよそ把握された。
そこで那須は諸将へ使者を送り、評定を開くことを告げる。
場所は――つい数か月前まで四国最大の激戦地であった岡豊城。
長宗我部元親。
陶晴賢。
河野家、一条家、旧三好の諸将。
そして那須資忠。
今度は鎧ではなく礼服をまとい、刀ではなく言葉を携えて、一堂に会する。
戦に勝つためではない。
四国を治め、人々に再び平穏を取り戻すための、新たな評定が岡豊城で幕を開けようとしていた。




