折鷹の策・収鷹 ――久万高原決戦――
秋風が久万高原を渡る。
黄金色に染まり始めた草原を挟み、二つの軍勢が静かに対峙していた。
北には久万城。
一年をかけて陶晴賢が築き、守り抜いた山城。
南には長宗我部元親を総大将とする四国連合軍。
長宗我部。
十河。
香川。
安宅。
四つの旗が秋空にはためいている。
互いに退路はない。
この一戦が、四国の命運を決める。
法螺貝が高く鳴り響いた。
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「那須殿。」
陶が静かに声を掛ける。
那須資忠は馬上から頷いた。
「今日の指揮はお任せいたします。」
陶は軍配を握り直す。
「お願いします。」
「戦場をかき乱してください。」
「敵に私の考えを悟らせてはなりません。」
那須は笑った。
「承知。」
「では、狩りの始まりです。」
那須は大久保兄弟、小笠原長時・長景父子を率いて左右へ散る。
姿を見せては消え。
横腹を突いては退く。
追えば逃げる。
止まれば現れる。
まるで山野を駆ける狼の群れであった。
十河が怒鳴る。
「追え!」
しかし那須は捕まらない。
香川が兵を向ける。
すると今度は小笠原父子が別方向から現れる。
安宅が動けば大久保兄弟が槍を突き出す。
戦場全体が少しずつ乱れていく。
しかし那須は決して深入りしない。
それは一年間変わらぬ戦い方だった。
元親は静かに頷く。
「今日も同じか。」
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昼を回る頃。
陶は軍配を静かに下ろした。
「本陣。」
「退け。」
太鼓が鳴る。
陶軍本陣は整然と後退を始めた。
兵たちは驚く。
敵も味方も。
「陶が退く!」
歓声が上がる。
十河が槍を掲げた。
「勝機ぞ!」
元親は即座に叫ぶ。
「追うな!」
「待て!」
しかし一年積み重ねた焦りが理性を上回った。
「今こそ久万を落とす!」
「敵は疲れておる!」
四国連合軍の先鋒が一斉に駆け出した。
陶は振り返らない。
静かに歩き続ける。
本多正信が小さく笑った。
「参りました。」
陶も頷く。
「釣れた。」
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谷へ踏み込んだ瞬間。
法螺貝が三方から鳴り響く。
左右の林から大久保兄弟。
尾根から小笠原父子。
退いていた陶軍も一斉に反転した。
「しまった!」
先鋒は完全に包囲された。
逃げ道は狭い谷だけ。
なおも兵を押し出す将へ。
那須の弓が唸る。
一矢。
二矢。
狙うのは兵ではない。
最後まで前へ進ませようと叫ぶ者だけ。
将が倒れる。
旗が倒れる。
号令が止まる。
その瞬間だった。
陶は敵全体を見た。
前を向いていた兵の目が変わる。
槍先が下がる。
誰も前を見ていない。
皆、岡豊への道を見ている。
陶は静かに呟いた。
「折れた。」
本多正信も深く頷く。
「はい。」
「心が。」
陶は軍配を高々と掲げた。
「折鷹の策。」
「収鷹。」
その一言で空気が変わった。
「全軍!」
「追え!」
諸将が驚く。
一年。
一度たりとも命じなかった命令だった。
「敵を休ませるな!」
「岡豊まで押し返せ!」
「城へ入る道だけ残せ!」
「討ち尽くすな!」
「ただ休ませるな!」
陶軍は鬨の声を上げた。
それは芝居ではなかった。
兵に芝居などできない。
だから皆、本当に命を懸けて走った。
本気で追う。
敵もまた本気で逃げる。
その必死さこそが、敵の心へ最後の楔を打ち込む。
「なぜ追ってくる!」
「今まで追わなかったではないか!」
十河も。
香川も。
安宅も。
誰もが驚いた。
一年間。
陶も那須も追撃しなかった。
だから今日も追ってこない。
その思い込みが、一瞬で崩れ去る。
逃げる。
走る。
転ぶ。
立ち上がる。
味方とはぐれた者は各所で討ち取られ、あるいは捕らえられ、隊列へ戻ることはできない。
誰も立ち止まれない。
止まれば後ろから陶軍が迫る。
ただひたすら岡豊を目指すしかなかった。
夕暮れ。
岡豊城が見えた。
兵は雪崩を打って城門へ駆け込む。
長宗我部。
十河。
香川。
安宅。
四家の兵は我先にと城へ逃げ込んだ。
城門が閉じる。
その瞬間。
陶は軍配を静かに下ろした。
「止まれ。」
陶軍は岡豊城を取り囲む。
しかし攻めない。
矢も放たない。
槍も進めない。
静かに。
ただ静かに城を囲んだ。
本多正信が岡豊城を見上げる。
「殿。」
「攻めませぬか。」
陶は静かに首を横へ振った。
「攻めれば。」
「敵は籠城という理由を得る。」
「今。」
「敵には敗北しかない。」
「心が折れた今こそ。」
「言葉が届く。」
秋風が岡豊城を吹き抜ける。
厳島で国を失ってから幾年月。
久万で一年。
川之江で一年。
陶晴賢は静かに城を見つめ、小さく呟いた。
「長い。」
「長い長い狩りであった。」
「だが。」
「これにて終わる。」
こうして折鷹の策・収鷹は完成した。
それは敵を滅ぼす策ではない。
敵の心を折り、再び剣を取れぬよう岡豊へ収める、四国最後の狩りであった。




