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雨中の一矢

梅雨はなおも四国を覆っていた。


空は鉛色。


川之江の川は濁流となり、瀬戸内の海も白波を立てて荒れている。


そんな雨の朝、物見の兵が城へ駆け込んだ。


「敵襲!」


「十河、香川、安宅、三家同時に動きました!」


城内が一気に慌ただしくなる。


しかし那須資忠だけは静かだった。


立ち上がると弓を手に取り、弦を指で確かめる。


濡れている。


しかし迷いはなかった。


「配置につけ。」


その一言だけだった。


---


敵もまた覚悟を決めていた。


十河勢は砂州へ。


香川勢は上流へ。


安宅勢は船で川口へ。


三家は雨の中でも乱れぬ隊列を保っている。


「今日は違う。」


十河の将が兵へ言った。


「奴の弓は雨では伸びぬ!」


「ここで押し切る!」


兵たちも頷いた。


今まで何度も那須の矢に恐れた。


だからこそ今日は天が味方すると信じていた。


---


正面。


大久保兄弟は盾を並べる。


「来るぞ!」


忠佐が槍を構える。


しかし敵は慎重だった。


以前のような突撃ではない。


盾を前へ出し、一歩ずつ押し寄せる。


「殿。」


忠世が振り返る。


「まだです。」


那須は城門前から動かなかった。


弓を持ったまま敵を見ている。


---


上流。


香川勢もゆっくりと川へ入る。


雨で弓は利かぬ。


そう信じているからこそ、堂々と隊列を組んでいた。


「伏兵を恐れるな!」


「今日、那須は射てぬ!」


兵は叫びながら進む。


---


川口。


安宅水軍も船を寄せ始めた。


「今日は矢は飛ばん。」


船頭が笑う。


「那須もようやく刀を抜くであろう。」


---


その頃。


本多正信は城壁から敵を眺めていた。


敵の動きが変わっている。


以前より堂々としている。


恐れていない。


いや。


恐れないよう努めている。


「殿。」


本多が小さく言う。


「敵は。」


「弓を忘れようとしております。」


那須は静かに頷いた。


「違う。」


「忘れたいのだ。」


その言葉に本多は息を呑んだ。


敵は弓を克服したのではない。


雨という理由で、自分を納得させているだけだった。


ならば。


その理由を奪えばいい。


---


那須は歩き出した。


城門を出る。


兵がざわめく。


「殿!」


忠佐が叫ぶ。


「前へ出られるのですか!」


那須は止まらない。


雨を受けながら歩き続ける。


十河勢との距離。


五十歩。


四十歩。


三十歩。


敵兵も驚き始めた。


「出てきたぞ!」


「刀か!」


「槍か!」


さらに近づく。


二十歩。


十五歩。


十歩。


家臣が思わず叫んだ。


「殿!」


「危のうございます!」


だが那須は。


刀へ手をかけない。


静かに弓を構えた。


敵兵が笑う。


「馬鹿め!」


「その距離で弓か!」


「番える暇などあるまい!」


十河の若武者が槍を構え、一気に踏み込む。


七歩。


六歩。


五歩。


刀の間合いだった。


「今!」


若武者が槍を突き出した。


その瞬間。


那須の身体が半歩だけ左へ流れる。


槍先は空を切った。


同時に。


弓は半ばだけ引かれる。


満月のようには引かない。


短く。


鋭く。


雨を裂くような音。


矢は若武者の胸ではなく。


槍の穂先と柄を結ぶ革紐を射抜いた。


乾いた音。


槍の穂先が地面へ転がる。


若武者の手には、ただの棒だけが残った。


誰も理解できなかった。


「……え?」


敵も味方も動きを止めた。


那須は二本目を取る。


番える。


また前へ歩く。


今度は四歩。


三歩。


ほとんど刀を振れる距離だった。


敵兵は足を止めた。


もう笑う者はいない。


「まだ。」


那須が静かに言う。


「弓の間合いだ。」


その言葉は。


雨音より静かだった。


しかし戦場全体へ響いた。


誰も踏み込めない。


目の前の男は。


刀を抜かない。


それでも槍を壊し。


次は何を射るのか分からない。


その恐怖が兵の足を止めた。


---


本多正信は震えていた。


「違う……。」


「これは弓ではない。」


彼はようやく理解した。


兵学館で学んだ体術。


槍。


鉄砲。


剣。


そのすべてが。


弓の中にあった。


槍の間合い。


剣の踏み込み。


鉄砲の照準。


体術の半身。


すべてが一瞬の射へ変わっている。


「弓を極めたのではない。」


本多は思わず呟いた。


「武を極め。」


「すべてを弓へ還した。」


---


十河勢は後退を始めた。


誰も命令していない。


ただ。


近づけなかった。


近づくほど危ない。


雨でも。


至近距離でも。


那須は弓を捨てない。


その事実だけで十分だった。


忠佐は思わず追おうとした。


しかし那須は振り返らず命じる。


「追うな。」


「殿!」


「追えば。」


那須は濁流を見る。


「今日の勝ちは。」


「明日の禍になる。」


忠世も槍を下ろした。


小笠原父子も矢を収める。


誰一人追わない。


敵はゆっくり退いていく。


誰も討たれない。


だが。


誰も那須へ近づけなかった。


---


その夜。


敵陣では誰も口を開かなかった。


ようやく一人の老兵が呟く。


「雨なら弓は使えぬ。」


「そう思っておった。」


誰も答えない。


老兵は続けた。


「違う。」


「雨でも射る。」


「近くても射る。」


「ならば。」


「奴はいつ弓を捨てる。」


誰一人。


答えられなかった。


その沈黙こそが。


陶晴賢の望んだものだった。


敵の兵は初めて思う。


「那須資忠に勝つ方法が、もう思いつかない。」


その疑念は、雨よりも深く三家の陣へ染み渡っていった。

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