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雨は弓を折らず

梅雨の雨は、四国の山河を静かに呑み込んでいた。


久万高原から流れ落ちる水は谷を満たし、川之江の川もまた濁流となって瀬戸内へ注いでいる。


戦場からは鬨の声が消えた。


聞こえるのは雨と川の音だけである。


しかし、その静けさは休戦ではなかった。


次の一戦へ向けて、敵も味方も息を潜めているだけだった。


---


十河、香川、安宅の三家は雨を避けられる高台へ陣を移していた。


陣幕の中では濡れた具足が乾かされ、折れた槍が修理されている。


誰も酒を飲もうとはしない。


三家を束ねる旗も畳まれたままだった。


十河の将が重々しく口を開く。


「那須は、雨を待っていたのではないか。」


誰も笑わない。


以前ならば一笑に付した言葉である。


香川の将も静かに頷いた。


「我らは雨なら弓が使えぬと思った。」


「ところが奴は、弓を射た。」


安宅の大将は、あの白布の矢を見つめていた。


『戻れ』


ただ二文字。


しかしその矢は、兵を討つよりも深く心へ刺さっていた。


「奴は。」


安宅の大将が低く呟く。


「雨でも弓を捨てなかった。」


三人は初めて同じことを考えていた。


那須資忠は、もう以前の那須ではない。


---


一方、川之江では雨の中でも鍛錬が続いていた。


城内の兵は驚いていた。


雨の日は普通、弓の稽古を控える。


弦は湿り、矢羽も重くなる。


ところが那須だけは違った。


朝から晩まで雨の中に立ち続ける。


乾いた弦を一本。


湿らせた弦を一本。


濡れた矢羽。


乾いた矢羽。


一本ずつ確かめながら射続けた。


大久保忠佐が呆れたように言う。


「殿。」


「そこまで違いますか。」


那須は的から目を離さない。


「違う。」


短く答える。


「雨の日は雨の日の弓になる。」


「晴れの日の弓を求めるから外す。」


一本。


また一本。


矢は雨粒を裂きながら飛ぶ。


距離は二十間。


さらに十五間。


十間。


やがて五間。


忠佐は首を傾げた。


「近すぎませぬか。」


「近い。」


「ならば刀では。」


那須は静かに首を振った。


「まだ弓だ。」


五間。


三間。


ついには人が一息で踏み込める距離まで近づく。


そこでも那須は弓を下ろさない。


弦を半ばまで引き、一瞬で放つ。


矢は音もなく的へ突き刺さった。


忠世が思わず息を呑む。


「その距離で……。」


那須は弓を見つめた。


「兵学館では。」


「私は鉄砲も槍も学んだ。」


「近ければ刀を抜くものだと思っていた。」


「違った。」


「近いほど。」


「弓で射ねばならぬ。」


忠佐が笑う。


「敵は泣きますぞ。」


「刀の間合いまで来て弓とは。」


那須は穏やかに答えた。


「だから折れる。」


---


その頃。


本多正信は廊下からその稽古を見ていた。


誰にも気づかれぬよう柱の陰に立ち、黙って見守る。


一本。


また一本。


距離が近づくほど、那須の身体から無駄が消えていく。


本多は小さく笑った。


「そういうことか。」


陶晴賢は城を極めた。


敵が思う一歩先に道を作る。


那須資忠は弓を極め始めた。


敵が思う一歩先の間合いで射る。


二人は違うようで、同じところへ至ろうとしていた。


「敵は対策を考える。」


本多は一人呟く。


「だが、その対策ごと上を行く。」


「それが折鷹の本当の意味か。」


---


雨はなおも降り続いていた。


だが川之江の兵たちは知っていた。


那須はもう、雨を恐れていない。


敵もまた知っていた。


雨になれば弓は使えない。


その最後の常識まで、那須資忠は打ち砕こうとしていることを。


そして誰もまだ知らない。


梅雨が明けたその日。


那須が至近の間合いで放つ一矢が、四国の戦の流れを決定づけることになるとは。

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