軍議 ――弓へ還る
梅雨の雨は、休むことなく川之江を打ち続けていた。
城外では濁流が轟き、昨日まで渡れた浅瀬はすでに姿を消している。
川は敵味方を分ける境ではなく、それ自体が一つの城となっていた。
川之江城の評定の間には、大久保忠世・忠佐兄弟、小笠原長時・長景父子、本多正信、そして那須家の諸将が集まっていた。
誰も口数は多くない。
これまで三家を三度退けた。
しかし那須は分かっていた。
敵はまだ折れていない。
雨を言い訳にできるからである。
那須は静かに立ち上がり、絵図の前へ進んだ。
「まず確認する。」
「敵は必ず来る。」
「理由はただ一つ。」
「晴れていれば勝てたと思っているからだ。」
誰も異論はなかった。
本多正信が頷く。
「十河は砂州。」
「香川は上流。」
「安宅は川口。」
「雨を味方にし、那須殿の弓を封じたつもりで攻めて参りましょう。」
那須は黙って弓を見つめた。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて那須は、小さく息を吐いた。
「……私は。」
皆が顔を上げる。
那須が軍議で、自らの胸中を語ることは珍しかった。
「兵学館では、多くを学んだ。」
「鉄砲。」
「体術。」
「槍。」
「刀。」
「どれも必要だった。」
「どれも私を育ててくれた。」
忠世も長時も静かに聞いている。
「だが四国へ来てから、ずっと考えていた。」
「私は何者なのか、と。」
雨音だけが響く。
那須はゆっくり弓を持ち上げた。
「私は……。」
「弓から逃げていた。」
広間が静まり返る。
忠佐が思わず顔を上げる。
「殿……。」
「那須与一の名が重かった。」
「弓で勝負して敗れれば、祖の名を汚す。」
「だから私は。」
「槍へ逃げた。」
「刀へ逃げた。」
「鉄砲へ逃げた。」
「万能であることを理由に、本当に向き合うべきものから逃げていた。」
本多正信は、その言葉に目を閉じた。
陶晴賢が言っていた。
敵を折るには、まず己を知れ。
まさにその瞬間だった。
那須は弓を握り直す。
「しかし。」
「陶殿の策を続けるうちに気付いた。」
「折れていたのは敵ではない。」
「私の心だった。」
静かな声だった。
だが誰の胸にも響いた。
「私はもう逃げぬ。」
「鉄砲で学んだ狙い。」
「槍で学んだ間合い。」
「刀で学んだ踏み込み。」
「体術で学んだ身体。」
「すべて、この弓へ還す。」
那須は初めて穏やかに笑った。
「私は那須与一になろうとは思わぬ。」
「那須資忠として。」
「那須与一を超える。」
広間には雨音しかなかった。
やがて小笠原長時が静かに頭を下げた。
「そのお覚悟。」
「弓馬の家として、お供いたします。」
忠世も槍を立てる。
「ならば我らは。」
「殿が弓を引く間合いを守ります。」
忠佐は笑った。
「今度こそ、刀を抜かせませぬ。」
本多正信も深く一礼する。
「私は陶殿へ師事したいと思いました。」
「しかし今は。」
「まず那須殿の弓を見届けとうございます。」
那須は絵図へ向き直った。
「策を示す。」
一本の筆で砂州をなぞる。
「十河はここへ来る。」
上流へ線を引く。
「香川はここだ。」
川口を指す。
「安宅は船で渡る。」
三方向へ筆が走る。
「だが。」
「我らは敵を討たぬ。」
「追わぬ。」
ここで那須は、はっきりと言い切った。
「今まで追撃を控えよと言ってきた。」
「今回は違う。」
「追撃を禁ずる。」
皆が顔を上げる。
「敵が崩れても。」
「敵将が落馬しても。」
「背を向けても。」
「一歩たりとも追ってはならぬ。」
忠佐が尋ねる。
「殿。」
「今まで以上に、でございますか。」
「そうだ。」
那須は頷く。
「この雨だ。」
「増水した川へ追えば。」
「敵より先に、味方が死ぬ。」
「勝って命を失えば、それは敗北だ。」
そして静かに続けた。
「もう一つ理由がある。」
「敵には帰ってもらう。」
「雨だから負けた。」
「そう思わせたまま帰す。」
「それが折鷹の策。」
「雨が明けた時。」
「彼らは必ず、もう一度来る。」
「その時こそ。」
「雨でもない。」
「地形でもない。」
「言い訳のない戦になる。」
那須は弓を握る。
「私は。」
「その戦で、この弓だけで勝つ。」
その言葉に誰も異論を挟まなかった。
皆、この瞬間を境に那須が変わったことを悟っていた。
兵学館の万能の武人ではない。
弓に生きる武将。
那須資忠は、この軍議で初めて己の道を定めたのである。




