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三矢、束なる

安宅の軍旗が波間へ落ちた日の翌朝、川之江に雨が降った。


春の終わりを告げるような、細く冷たい雨だった。


山の緑は濡れて色を深め、街道には浅い水溜まりができている。沖に停泊する安宅の船も霞み、城から見えるのは帆柱の影ばかりであった。


那須資忠は城内の射場に立っていた。


雨に濡れぬよう軒下へ入り、弓の弦を一本ずつ確かめている。湿気を含んだ弦はわずかに重く、いつもより鈍い音を返した。


三度戦い、三度勝った。


十河には正面から挑ませ、その大旗を射た。


香川には策が成ったと思わせ、その進軍旗を折った。


安宅には海を自由に動かせると信じさせ、帆綱と軍旗を射落とした。


いずれの戦でも敵将は討っていない。


兵の損害も、通常の合戦と比べれば少なかった。


陶晴賢から命じられたとおり、勝っては逃がした。


それでも那須の胸に、勝利の軽さはなかった。


三家が再び来ることを知っているからである。


これまでの三家は、それぞれ自分だけならば勝てると思っていた。


十河は香川を頼らなかった。


香川は十河の失敗を笑った。


安宅は陸の二家を見下ろし、海ならば違うと信じた。


だが今は違う。


三家は、それぞれの方法をすべて那須に破られた。


次に来る時、彼らは初めて互いを必要とする。


那須は雨の向こうへ目を向けた。


十河の力。


香川の策。


安宅の船。


三つが一つになれば、これまでとはまるで異なる敵になる。


弓の弦を鳴らす。


湿った音だった。


「余市公の頃とは違う。」


那須は小さく呟いた。


祖・那須余市が射た扇は一つだった。


今度、資忠が射るべきものは三つの誇りが結びついた一つの軍である。


一本の矢で届くものなのか。


その答えは、まだ見えなかった。


---


同じ頃。


十河、香川、安宅の三家は、初めて同じ陣幕の下へ集まっていた。


これまでにも使者を交わし、戦の相談をしたことはある。


しかし三家の当主や主だった将が、互いの面子を捨てて一つの軍議へ臨むのは初めてだった。


中央には川之江の絵図がある。


十河の将は腕を組み、香川方は険しい顔で地形を見つめ、安宅方は濡れた軍旗を脇に置いていた。


誰も、すぐには口を開かなかった。


互いに敗れている。


その事実が、三者の間に横たわっていた。


最初に口を開いたのは十河方だった。


「我らは正面から敗れた。」


言葉にするまで、しばらく時間がかかった。


「旗を落とされ、先陣を崩された。だが、あれは我らだけの責ではない。香川も安宅も動かなかった。」


香川方の将が顔を上げる。


「我らが動いたところで、崩れた十河勢を支えるだけだった。」


「その結果、お主らも敗れたではないか。」


「我らは十河のように力押しはしておらぬ。」


「策を用いて、敵の策へ入ったのであろう。」


険悪な空気が流れた。


安宅方の大将が、濡れた旗を畳みながら低く言った。


「その話は、もうよい。」


二家の視線が向く。


「我らも敗れた。」


安宅方の者が自ら敗北を認めたことで、陣幕の中が静まった。


「あの男は、我らが何を誇りとしているかを知っている。」


安宅方の大将は続けた。


「十河には旗を射た。」


「香川には進軍の合図を射た。」


「我らには船を動かす綱を射た。」


濡れた軍旗へ目を落とす。


「那須は、ただ弓が巧いのではない。」


「我らが何を失えば兵を動かせなくなるか、それを見ている。」


香川方の将が苦々しく頷いた。


「あれを一つの軍で相手取るのは危険だ。」


十河方が問い返す。


「ならば退くか。」


その言葉に、三家の将たちが一斉に顔を上げた。


退く。


それを選べれば、そもそもここまで戦ってはいない。


三家とも長宗我部の圧力にさらされ、讃岐と阿波の主導権を争い、松永久秀が自分たちの調略へ応じたと信じて兵を出している。


一度戦っただけなら、退くこともできた。


だが三度敗れ、三度逃がされた後では、何も得ずに帰ることはできない。


国へ帰れば問われる。


那須はどれほど強かったのか。


なぜ兵も将も残っているのに、川之江を取れなかったのか。


殺されなかったことさえ、屈辱の証しとなる。


香川方の将が静かに言った。


「もう一度だけだ。」


「今度は三家で戦う。」


十河方が眉を上げる。


「我らに香川の命を聞けと申すか。」


「誰か一人の下につくのではない。」


香川方は絵図の三か所を指した。


「十河が正面を押す。」


「我らが山側から那須の伏兵を封じる。」


「安宅が浜と城下を脅かす。」


安宅方が続ける。


「那須はどこか一つを捨てねばならぬ。」


「正面を守れば山と海が開く。」


「山へ兵を割けば十河が押し破る。」


「船へ向かえば香川が背後へ回る。」


十河方はまだ不満そうだった。


しかし絵図を見る目には、先ほどまでの怒りとは違う光があった。


三方から同時に攻める。


それならば、那須も一つの旗を射るだけでは止められない。


「勝手に退く者は出ぬな。」


十河方が言った。


香川方も答える。


「隣が崩れても見捨てぬ。」


安宅方の大将が濡れた軍旗を広げた。


「この旗を三家の中央へ立てる。」


「誰か一家の旗ではない。三家すべての旗としてだ。」


それぞれの家紋を縫い合わせた新たな旗を作る。


三家のいずれかが退けば、旗を捨てることになる。


互いを縛るための旗だった。


十河方の将は、しばらくその旗布を見つめた。


やがて手を置く。


香川方も続く。


最後に安宅方が手を重ねた。


「次で決める。」


三つの誇りが、初めて一つに束ねられた。


---


その日の夕刻。


敵陣から戻った間者が、川之江城へ駆け込んだ。


「申し上げます!」


「三家が陣を一つにまとめました!」


広間に集まった者たちの顔が引き締まる。


大久保忠世と忠佐。


小笠原長時と長景。


那須家の古参。


さらに河野方から派遣された連絡役も加わっていた。


絵図の上には、三家の新たな陣が記されている。


以前は距離を置いていた陣幕が寄せられ、荷駄も一か所へまとめられている。


小笠原長時が言った。


「ようやく、こちらの意図を悟りましたな。」


大久保忠佐は複雑そうな顔をする。


「敵の心を折るために戦わせた結果、敵が一つになった。」


「悪くなったようにも聞こえるな。」


兄の忠世が言うと、忠佐は肩をすくめた。


「実際、悪くなっております。」


那須は黙って絵図を見ていた。


陶の策では、三家を心が折れるまで戦わせる。


だがそれは、ただ個別に敗北させ続けることではない。


別々に戦う者は、敗北の理由を他者へ求める。


十河は香川が動かなかったからだと思う。


香川は十河が先に失敗したからだと思う。


安宅は陸の者と連携しなかったからだと思う。


その言い訳をすべて失わせなければならない。


三家が全力で力を合わせ、それでも勝てなかったと悟らせる。


ここまで来て、初めて折鷹の策は本当の意味を持つ。


「これでよい。」


那須が言った。


忠佐が思わず聞き返す。


「よいのですか。」


「ああ。」


那須は三家の陣を指した。


「彼らはようやく、負けるための支度を整えた。」


言葉は冷たく聞こえた。


だが那須の顔に嘲りはない。


むしろ、これまで以上に重い表情をしていた。


敵もまた武士である。


別々に戦い、己の不足を知り、ついに面目を捨てて力を合わせた。


その決断は、称えるべきものだった。


だからこそ、中途半端には退けられない。


三家すべてが、これ以上はないと納得する形で敗れねばならない。


小笠原長景が問う。


「三方から同時に来るでしょう。」


「正面は十河。」


「山側は香川。」


「海は安宅。」


「殿はいずれを射ます。」


那須は答えなかった。


一つを射れば、残る二つが進む。


十河の旗を落としても、香川が動きを止めなければ意味がない。


香川の伝令を断っても、安宅の船は浜へ着く。


安宅の帆を射ても、十河が正面を破る。


これまでのように、一矢で一軍を止めることはできない。


大久保忠世が言った。


「今度は、殿がすべてを射る必要はありますまい。」


那須が顔を上げる。


忠世は小笠原父子を見る。


「十河は我らが受けます。」


小笠原長時も頷いた。


「香川は我らが止めましょう。」


長景が続く。


「殿には、安宅を。」


那須は三人を見回した。


「敵は同時に来る。」


「承知しております。」


「十河を受けながら、退路を残せるか。」


忠佐が槍を立てる。


「三度も追うなと言われました。」


「さすがに覚えましたぞ。」


忠世が横から言う。


「まだ信用ならぬ。私が後ろにつく。」


「兄者はいつも私を子ども扱いする。」


「子どもより前へ出るからだ。」


軽口が交わされたが、二人の覚悟は明らかだった。


小笠原長時も静かに言う。


「弓は那須家だけのものではございませぬ。」


「我ら小笠原も、弓馬の家。」


「香川の策を、今度は正面から射崩してみせましょう。」


那須は胸の奥に、わずかな熱が生まれるのを感じた。


これまで彼は、祖・余市の名を背負い、一人で必要な矢を放とうとしていた。


だが戦は一人でするものではない。


長時が以前に言ったとおりである。


弓を引く者がいても、弓そのものを支える者がいなければ、矢は飛ばない。


大久保兄弟。


小笠原父子。


那須家の兵。


今治で兵站を支える岩成と河野。


久万で長宗我部を引きつける陶。


離れていても、すべてがこの一矢へつながっている。


那須は絵図の中央へ指を置いた。


「敵の三手を、別々には受けぬ。」


諸将が耳を傾ける。


「三家は一つになった。」


「ならば、その結び目を射る。」


長景が問う。


「結び目とは。」


「新たな旗だ。」


間者の報告によれば、三家はそれぞれの家紋を合わせた旗を用意している。


三家が力を合わせた証し。


同時に、互いが勝手に退かぬための誓いでもある。


「あの旗が立つ限り、三家は退かぬ。」


「では、旗を落とせば。」


「退く理由が生まれる。」


ただし旗を射るだけでは足りない。


その前に三家すべてを押し返し、旗が落ちた瞬間に「これ以上は戦えない」と思わせる必要がある。


那須は配置を決めた。


正面の十河勢には大久保兄弟。


山側の香川勢には小笠原父子。


浜には最小限の兵だけを見せる。


那須自身はどこにも立たない。


敵から姿が見えぬ場所へ伏せる。


「殿がおらぬと見れば、敵は探しますぞ。」


忠世が言った。


「探させる。」


「三家の目を、私一人へ向ける。」


「その間、お主らが押し返す。」


那須が姿を現せば、三家はその場所を攻める。


姿を隠せば、三家はどこから矢が来るか分からない。


那須の弓そのものを、見えない圧力として戦場全体へ置く。


「私は最後まで射ぬ。」


那須は言った。


「三家がすべての力を使うまで待つ。」


「十河が押し切れず。」


「香川の策が止まり。」


「安宅の上陸が果たせぬ。」


「それでもなお旗を掲げて進もうとした時、あの結び目を射る。」


忠佐が笑みを消した。


「一歩誤れば、こちらが破られます。」


「そうだ。」


那須は認めた。


「此度は、敵を逃がす余裕がなくなるかもしれぬ。」


これまでの戦いでは、那須が戦場の流れを握っていた。


だが三家が同時に攻めれば、どこか一つが破られる可能性は高い。


民を守るためには、必要なら敵将も討たねばならない。


策を守るために味方を犠牲にしてはならない。


那須は一同へ告げた。


「無理だと思えば、敵を討て。」


「これまでの命に縛られるな。」


「味方と民を守ることが先だ。」


諸将は黙って頷いた。


那須にとっても、これは覚悟だった。


敵を殺さず心を折る。


その理想を捨てる可能性を認めた上で、それでも最後まで理想を追う。


それが将としての責任だった。


---


翌朝。


雨は上がった。


雲の切れ間から淡い光が差し、濡れた草木から白い靄が立ち上っている。


三家の陣から、太鼓が鳴った。


一つ。


二つ。


三つ。


これまでは別々に響いていた音が、今は同じ調子を刻んでいる。


川之江城の櫓から、敵の軍勢が動き始めるのが見えた。


正面には十河勢。


盾と槍を並べ、以前よりもゆっくりと進んでくる。


山側には香川勢。


伏兵を警戒しながら斥候を先へ出し、丘を一つずつ確かめている。


沖では安宅の船団が帆を半ばまで上げ、浜の南北へ広がっていた。


三家の中央。


少し高い場所に、新たな旗が掲げられている。


十河、香川、安宅。


三つの家紋を縫い合わせた大旗だった。


風を受けるたび、三つの紋が一つの布の上で揺れている。


那須は城の裏手にある小高い丘へ身を伏せていた。


ここからは正面、山側、浜の一部まで見渡せる。


だが敵からは木々に隠れ、姿が見えない。


傍らには数本の矢だけが置かれていた。


いつものように何十本も用意してはいない。


必要なのは、最後の一矢。


そうなるはずだった。


法螺貝が鳴る。


十河勢が進んだ。


大久保兄弟の槍隊が正面で受ける。


初めから激しくぶつかりはしない。


押されては半歩退き、敵の勢いを受け流す。


十河勢は以前の敗北を忘れていなかった。


旗を前へ出しすぎない。


先陣だけを突出させない。


左右の兵を揃え、少しずつ那須軍を押していく。


大久保忠佐は歯を食いしばった。


目の前の敵は、前回より明らかに強い。


個々の兵が強くなったのではない。


敗北を知り、慎重になっている。


槍を突き出す。


敵の槍を払い、前へ出ようとする身体を無理に止める。


「押し返すな!」


忠世の声が飛ぶ。


「受けろ! まだ受けるだけだ!」


忠佐は従った。


だが一歩ずつ、那須勢は後ろへ下がっていく。


---


山側では、小笠原父子が香川勢と対峙していた。


香川勢は前回のように弓隊だけを追わない。


斥候を左右へ放ち、大久保勢の伏兵がいないかを調べながら進む。


長景が矢を放つ。


一人の斥候の足元へ突き立て、歩みを止める。


だが別の斥候がさらに外側を進んだ。


香川は時間をかけていた。


その間に十河が正面を押す。


焦れば、小笠原勢が先に仕掛ける。


仕掛ければ、その位置を見て本隊が動く。


「こちらを戦わせぬつもりです。」


長景が言う。


父の長時は頷いた。


「戦わずに我らを縛り、十河に正面を破らせる。」


「ならば出ますか。」


「出れば、前と同じように誘われたと思わせる。」


長時は弓を下ろしたまま命じた。


「さらに下がれ。」


長景が驚く。


「戦わず退くのですか。」


「香川は我らが焦るのを待っている。」


「ならば、焦っているのがどちらか分からなくしてやろう。」


小笠原勢は一射を加えると、丘を一つ捨てた。


香川勢はすぐには追わない。


だが止まっていれば、十河だけが功を挙げる。


その思いが、香川方の将の胸へ生まれる。


策を優先すべきか。


十河に先を越されぬよう進むべきか。


三家が一つになっても、それぞれの誇りが消えたわけではなかった。


---


海では安宅の船が浜へ迫っていた。


今度は帆綱を厚い布で覆い、矢を防ぐための小盾まで取りつけている。


さらに数艘は帆を使わず、初めから櫂で進んでいた。


網を流されても切れるよう、船首には鎌を持つ兵が立っている。


前回の敗北から、安宅は十分に学んでいた。


浜の守備兵は少ない。


那須の姿も見えない。


安宅方の大将は警戒した。


那須は必ずどこかにいる。


帆綱を狙うのか。


旗を狙うのか。


船頭たちは、矢が飛ぶたびに盾を動かせるよう構えている。


だが、矢は来なかった。


船は浜へ近づく。


小舟が下ろされる。


兵が乗り移る。


なお矢は来ない。


「那須は正面か山へ出たか。」


誰かが言った。


大将は答えなかった。


姿が見えないことが、かえって恐ろしい。


しかし進まねばならない。


三家は、この一戦で決めると誓った。


「上陸せよ。」


小舟が浜へ向かった。


---


那須は丘からすべてを見ていた。


正面では大久保兄弟が押されている。


山側では小笠原父子が丘を一つ捨てた。


浜には安宅の小舟が着こうとしている。


家臣が低い声で尋ねる。


「殿。」


「どこを射ます。」


那須は答えない。


まだ早い。


三家は力を残している。


ここで旗を落としても、まだ戦えると思えば止まらない。


十河が押せると信じている。


香川は策が成っていると考えている。


安宅は上陸できると思っている。


その三つの希望が同時に潰れた時でなければ、旗はただの布にすぎない。


「待て。」


那須は自分自身へ言い聞かせるように呟いた。


浜へ安宅兵が上がった。


正面では大久保忠佐が膝をつきかけた。


香川勢が捨てられた丘へ入った。


なお待つ。


弓を握る手に汗が滲む。


これまでの戦では、那須が射る時を決めた。


今は味方が耐えられる限界を見極めねばならない。


遅ければ、兵が死ぬ。


早ければ、敵の心は折れない。


そのわずかな間に、将のすべてが問われる。


「殿!」


正面から早馬が来た。


「大久保勢、あと半町で第二陣まで押されます!」


続いて山側からも使者。


「香川勢、丘を越えました!」


浜からは鐘の音。


上陸を知らせる合図である。


家臣が再び叫ぶ。


「殿!」


那須は弓を取った。


しかし狙ったのは旗ではなかった。


「今だ。」


丘の背後へ向かって手を上げる。


待機していた伝令が三方へ走った。


---


正面。


大久保忠世が後方の旗を振った。


「左右へ開け!」


槍隊が一斉に分かれた。


押していた十河勢の前に、突然道が開く。


罠を疑い、先頭が止まった。


その瞬間、左右へ開いた大久保勢が槍を内側へ向ける。


進めば側面を突かれる。


止まれば後続が詰まる。


前回、十河を逃がすために使った動き。


今度は敵を細い道へ閉じ込めるために使った。


忠佐が叫ぶ。


「止めろ! 押し返すな、止めるだけだ!」


十河勢の前進が止まった。


---


山側。


小笠原長時が捨てた丘の先には、何もないように見えた。


香川勢が頂へ出る。


眼下には川筋があり、雨で水量を増していた。


橋は落とされている。


渡れる場所は狭い浅瀬だけ。


その対岸に、小笠原長景の弓隊が並んでいた。


長時は丘を奪われたのではない。


香川勢を、川を背負う場所まで導いていた。


「放て!」


矢が降る。


香川勢は前へ進めず、後ろには続く兵がいる。


川を背にしたまま、足が止まった。


---


浜。


安宅の兵が上陸した瞬間、城下の家々の陰から兵が姿を現した。


武装した兵だけではない。


漁師たちが長い竿を持ち、浜へ並んでいる。


竿の先には鉤。


船を壊すためではない。


小舟を沖へ押し戻すためのものだった。


安宅兵が浜へ上がれば、小舟だけが海へ押し返される。


退路を失うと見た安宅兵は前へ進めない。


母船から援護の矢を放とうにも、味方が浜へ密集している。


「船を戻せ!」


「浜へ寄せ直せ!」


海上も陸上も、互いに動けなくなった。


三家の前進が同時に止まった。


那須はその瞬間を見た。


十河の力。


香川の策。


安宅の海。


三つの希望が、同時に止まった。


それでも中央の大旗は立っている。


三家の将たちは、その旗を見て踏みとどまろうとする。


まだ退けぬ。


旗がある。


三家は一つである。


ここで退けば、他の二家を裏切る。


その思いだけが、止まった軍をなお前へ動かそうとしていた。


「今だ。」


那須は矢をつがえた。


距離は遠い。


これまで射た旗よりも、はるかに遠い。


しかも雨上がりの風が、谷と海の間で複雑に揺れている。


三家の旗は高台にある。


旗そのものではなく、旗竿を支える三本の綱。


十河方。


香川方。


安宅方。


三方向へ張られた綱が、一つの竿を支えている。


どれか一本を切っただけでは倒れない。


二本でも、風向きによっては残る。


三本すべてを射る必要がある。


那須は一本目を放った。


矢が風を裂く。


十河方へ張られた綱が切れた。


旗が大きく傾く。


敵陣がざわめいた。


那須はすぐ二本目を取る。


香川方の綱。


放つ。


二本目も断たれた。


旗竿がさらに傾く。


しかし倒れない。


残る安宅方の綱が、一本で旗を支えている。


三家の兵がその綱へ駆け寄ろうとする。


那須は三本目をつがえた。


指先が震えた。


疲れではない。


この一矢が外れれば、三家は立て直す。


味方は限界に近い。


もう同じ機会は来ない。


祖の名が脳裏に浮かぶ。


那須余市。


波間の扇を、一矢で射た男。


だが資忠は、一人ではなかった。


正面で耐える大久保兄弟。


川を挟んで香川を止める小笠原父子。


浜で安宅を押し返す兵と民。


久万で元親を引き受ける陶。


今治から食を送る岩成と河野。


皆がこの一矢を支えている。


那須は息を吐いた。


震えが止まる。


「これは、私一人の矢ではない。」


放つ。


三本目の矢は、低く流れる風へ乗った。


安宅方の綱へ突き立つ。


縄が弾けた。


三つの支えを失った旗竿が、ゆっくりと傾く。


三家の紋を縫い合わせた大旗が、地へ落ちた。


戦場から音が消えた。


十河勢が止まる。


香川勢が川の前で振り返る。


安宅兵も浜から中央を見る。


三家を結んでいた旗は、泥の上へ倒れていた。


那須は弓を下ろした。


追撃の命令は出さない。


大久保兄弟も動かなかった。


小笠原父子も矢を止めた。


浜の兵たちも小舟を返した。


敵に退く道が、三方すべてで開かれた。


三家の将たちは、倒れた旗を見つめていた。


正面から押しても破れなかった。


策を用いても止められた。


海から上がっても進めなかった。


三家が力を合わせても、那須は誰一人として将を討たず、その結び目だけを射落とした。


もはや言い訳はなかった。


十河方の将が、槍を下ろした。


香川方も采配を伏せる。


安宅方の大将は、浜の兵へ船へ戻るよう合図した。


三家は同時に退き始めた。


それは敗走ではなかった。


陣形を保ち、傷ついた者を支え、倒れた旗を拾って帰る。


だが誰も、次こそ勝つとは叫ばなかった。


---


夕刻。


三家の使者が川之江城へ来た。


講和ではない。


降伏でもない。


しばらく兵を退き、戦死者と負傷者を収容したいという申し出だった。


那須はすぐに認めた。


さらに川之江側で保護していた負傷兵を返し、水と食料も持たせた。


使者は帰り際、那須へ尋ねた。


「なぜ、追われませぬ。」


那須は答えた。


「追えば、また戦わねばならぬ。」


「我らは、戦を続けるために勝ったのではない。」


使者は何も言えなかった。


三家の陣へ戻った後、その言葉は将から兵へ伝わった。


その夜、三家の陣火は一つずつ消えていった。


---


川之江城では、兵たちがようやく息をついていた。


大久保忠佐は槍を杖代わりにし、地面へ座り込んでいる。


「今度ばかりは、追う力も残っておりませぬ。」


忠世も隣へ座った。


「命令を守るにはちょうどよい。」


「兄者も顔が真っ青ですぞ。」


「お主ほどではない。」


少し離れたところでは、長景が弓の弦を外していた。


指には血が滲んでいる。


長時が薬を塗りながら言う。


「正面から引けたな。」


「ええ。」


長景は疲れた笑みを浮かべた。


「負けるふりより、よほど楽でございました。」


那須は城壁の上から、遠ざかる三家の灯を見ていた。


勝った。


今度こそ、三家は全力で戦い、全力で敗れた。


だが心が完全に折れたかは分からない。


武士は、敗れた直後ほど静かになる。


その静けさが諦めなのか、次の策を考える沈黙なのか。


見極めるには時間が必要だった。


背後から本多正信の声がした。


「見事でございました。」


那須が振り返る。


いつの間にか、旅装の男が立っていた。


笠には泥がつき、草鞋も擦り切れている。


久万から急いできたことは明らかだった。


「本多殿。」


「梅雨に捕まる前に、どうにか間に合いました。」


本多は遠ざかる敵陣を見た。


「三家を一つにし、その一つを折られた。」


「これで、しばらくは動けますまい。」


那須は首を横に振った。


「折ったのではない。」


本多が目を向ける。


「では、何と。」


「射たのは旗だけだ。」


那須は静かに答えた。


「心が折れるかどうかは、彼ら自身が決める。」


本多はしばらく那須を見た後、薄く笑った。


「陶殿と同じことを申されますな。」


「陶殿が?」


「城は敵を倒すものではなく、敵に諦める時を選ばせるものだと。」


那須は久万の方角を見た。


陶は今も、長宗我部の大軍を引き受けている。


自分は川之江で三家を退けた。


折鷹の二つの翼は、まだ別々の戦場にある。


だがいつか一つになる。


その時こそ、四国の大勢を決める戦になる。


空に低い雲が集まり始めていた。


本多が空を見上げる。


「間もなく梅雨です。」


「三家も兵を動かしにくくなる。」


那須は頷いた。


「我らも同じだ。」


雨が降れば川は増水し、道は泥になる。


矢の弦も湿る。


戦い方そのものを変えねばならない。


だが今は、わずかな静けさがある。


那須は弓を胸へ抱いた。


三つの矢は束ねれば折れにくい。


しかし束を支える結び目を失えば、また三本へ戻る。


那須が射たのは、敵の力ではない。


三家を戦へ縛りつけていた結び目だった。


その夜から、川之江には長い雨の匂いが漂い始めた。

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