三つの誇り
十河の大旗が返された翌朝、川之江には薄い霧が降りていた。
海と陸との境が曖昧になり、沖に浮かぶ安宅の船は、白い靄の中で黒い影となって揺れている。
川之江城の城門前では、那須資忠が兵たちの稽古を見ていた。
大久保忠世の指揮する槍隊は、押し出しては止まり、止まっては左右へ開く動きを繰り返している。敵を追い詰めるためではなく、退路を作るための稽古だった。
弟の忠佐は不満そうである。
「勝ちながら道を譲るというのは、どうにも妙なものですな。」
槍を肩へ担ぎながら、忠佐が言った。
「昨日も、あと二町追えば十河の将を捕らえられました。」
兄の忠世が横目で見る。
「追っておれば、殿の命に背いていた。」
「分かっております。」
忠佐は口を尖らせた。
「分かっておりますが、身体が勝手に前へ出るのです。」
その言葉を聞いていた那須が、わずかに笑った。
「それでよい。」
忠佐が意外そうに振り返る。
「よいのですか。」
「戦場で前へ出ぬ者は使えぬ。前へ出る者を止めるのは、将の役目だ。」
「ならば私は、殿に止めていただくために前へ出まする。」
「そのたびに命令違反として縛ることになるな。」
周囲から笑いが起きた。
初戦を終え、那須軍にはわずかな余裕が生まれていた。
死者は少ない。
傷を負った者もいるが、敵を押し返したという実感が兵たちの足取りを軽くしている。
しかし那須だけは、東の空を見ながら表情を緩めなかった。
十河は敗れた。
だが、香川と安宅はまだ戦っていない。
昨日の戦を見た二家は、十河の失敗から学んでいる。
次は同じ手では来ない。
小笠原長時が近づいてきた。
「殿。」
「香川方の使いが、十河の陣へ入ったそうです。」
「和睦か。」
「いえ。次の攻め手を巡る相談かと。」
長時の隣では、長景が敵陣を写した絵図を抱えている。
「香川勢は昨夜、北寄りへ陣を移しました。街道を正面から来るつもりはないようです。」
那須は絵図を受け取った。
川之江の東には、平坦な海岸部だけでなく、川筋や低い丘が入り組んでいる。
香川が選んだのは、十河が敗れた本道を避け、山側から回り込む道だった。
「やはり、十河と同じには戦わぬか。」
那須は呟いた。
長時が問う。
「いかがなされます。」
那須はすぐには答えなかった。
遠くで海鳥が鳴いている。
城下では、昨夜帰れなかった民たちが家へ戻り始めていた。道端に落ちた矢を拾い、壊れた垣根を直し、畑へ入った兵の足跡を鍬で均している。
一度の戦でさえ、民の暮らしには傷が残る。
これを何度も繰り返す。
陶晴賢から命じられた策の正しさを、那須は疑ってはいなかった。
それでも心のどこかに、重いものがあった。
敵の心を折るまで戦わせる。
言葉にすれば簡単である。
だが、そのためには兵も民も、幾度も戦の不安にさらされる。
那須は絵図を畳んだ。
「香川には、香川の勝ち方をさせる。」
長景が眉を寄せる。
「勝たせるのですか。」
「勝てると思わせる。」
那須は山側の道を指した。
「ここを空ける。」
「しかし、ここを抜ければ城下の裏へ出ます。」
「出られると思わせるのだ。」
長時はしばらく絵図を見つめ、やがて顔を上げた。
「その先に、我らの弓隊を置く。」
「いや。」
那須は首を振った。
「弓隊は見せる。」
「見せるだけですか。」
「香川は昨日、小笠原殿らの矢を見ている。ゆえに、まず弓を封じようとする。」
那須は長景を見た。
「お主には負けてもらう。」
長景は目を瞬いた。
父の長時も、わずかに驚いた顔をする。
「我らが、でございますか。」
「矢を射ち、押され、退け。」
「ただし乱れるな。」
「香川勢を、こちらが用意した場所まで導いてほしい。」
長景は絵図を見下ろした。
那須が指した先は、二つの丘に挟まれた細長い窪地だった。
そこへ入れば、香川勢は左右へ展開できない。
正面に見える弓隊を追うことに夢中になれば、兵は縦に長く伸びる。
「我らを餌にするのですな。」
長景が言った。
那須はごまかさずに頷いた。
「危険な役目だ。」
長時は息子を見る。
まだ若い。
だが、その表情に怯えはなかった。
長景は絵図を那須へ返した。
「承知いたしました。」
「ただし、ひとつお願いがございます。」
「申せ。」
「負けたふりはいたしますが、本当に負けるつもりはございませぬ。」
那須は静かに笑った。
「それでこそ小笠原だ。」
その日の昼前、香川勢が動いた。
予想どおり、正面の街道には出てこない。
丘の陰を伝い、川之江城の南東へ回り込む。
先頭には盾を持った兵が並び、その後ろに槍隊が続いていた。昨日の矢を警戒しているのは明らかだった。
香川方の陣では、十河の敗北が繰り返し論じられていた。
十河は急ぎすぎた。
大旗を前へ出しすぎた。
伏兵を探らず、那須一人の挑発に乗った。
ならば自分たちは違う。
弓の届きにくい山側を進み、盾で矢を防ぎ、小笠原の弓隊を先に追い払う。そのまま城下へ回り込み、那須の退路を断つ。
十河のように、見栄で戦うのではない。
香川は策で勝つ。
そう信じていた。
丘の上に小笠原父子の旗が見えた。
「やはりおるぞ!」
香川勢の先陣が声を上げる。
長景は弓を引いた。
矢が飛び、盾へ突き立つ。
続けて二射、三射。
だが盾を並べた香川勢は止まらない。
「弓は効かぬ!」
「押せ!」
歓声が上がる。
小笠原勢は射ながら退いた。
一段下がり、また射る。
香川勢が迫れば、さらに退く。
初めは慎重だった兵たちの歩みが、次第に速くなった。
敵が退いている。
昨日とは違う。
那須の弓兵は、自分たちの策に押されている。
その実感が、兵の恐れを消していく。
「追え!」
「城下まで押し込め!」
香川勢は窪地へ入った。
先頭は小笠原勢を追い、後続は遅れまいと続く。
細長く伸びた軍列の両側には、草の生い茂る低い丘がある。
誰かがその静けさを不審に思った。
しかし、前方では小笠原長景がさらに退いている。
あと少しで追いつく。
その欲が、疑念を押し流した。
窪地の半ばまで入った時。
小笠原勢が止まった。
長景は馬を返す。
先ほどまで退いていた弓兵たちが、一斉に向き直った。
「止まれ!」
香川方の将が叫んだ。
遅かった。
左右の丘から大久保兄弟の兵が姿を現した。
矢ではない。
大盾と長槍を持った兵が、丘を下りながら香川勢の側面へ圧力をかける。
討ちかかるのではなく、窪地の中央へ押し込むように進む。
香川勢は左右へ広がれない。
後ろからは味方が詰まり、退くことも難しい。
「罠だ!」
誰かが叫んだ。
その言葉が軍全体へ伝わるより早く、正面の小笠原勢が矢を放った。
狙うのは人ではない。
槍の穂先。
盾の縁。
旗の綱。
命令を伝えるために走る使番の足元。
前へ出ようとする者は矢で止まり、後ろへ退こうとする者は味方に塞がれる。
混乱が広がった。
その様子を西側の丘から見ていた那須は、まだ弓を構えなかった。
隣にいる家臣が尋ねる。
「今なら香川の大将を狙えます。」
「まだだ。」
「しかし、敵は完全に止まっております。」
「だから射ぬ。」
那須は敵陣の中を見ていた。
香川方の将は必死に立て直そうとしている。
馬を進め、兵へ声をかけ、旗を上げ直そうとする。
あれを射れば、香川勢は崩れる。
だが将を失えば、敗北を策の失敗ではなく、不運な死のせいにできる。
那須が射るべきものは、将の命ではなかった。
やがて香川方の中央で、一際大きな采配が振られた。
後退ではない。
前進の合図。
窪地から抜けるため、正面の小笠原勢を力ずくで破ろうとしている。
「あれだ。」
那須が矢をつがえた。
狙いは采配を持つ腕ではない。
采配の房でもない。
将の後ろに掲げられた、進軍を示す細長い旗。
風が一度、旗を広げた。
那須の指が弦から離れる。
矢は斜めに窪地へ入り、旗竿の中ほどへ当たった。
乾いた音が響く。
旗竿が折れた。
進軍の旗が倒れる。
その瞬間、前方の兵は命令を見失った。
止まる者。
進む者。
退く者。
三つの動きが重なり、香川勢の陣形は内側から崩れた。
那須はすぐに声を上げた。
「道を開けよ!」
大久保兄弟の兵が左右へ退く。
先ほどまで塞がれていた窪地の後方に、一本の退路が現れた。
「逃げ道だ!」
香川勢の兵が叫ぶ。
将の命令を待たず、後方の兵から動き始める。
前方の兵もそれに続いた。
香川方の将は止めようとした。
だが倒れた進軍旗を前に、兵はもう前へ出なかった。
やがて将も退却を認めるしかなくなった。
小笠原勢は追わない。
大久保忠佐も、今度は命じられる前に槍を止めた。
「追わぬぞ!」
自ら兵へ叫ぶ。
兄の忠世が笑う。
「少しは那須家の戦に慣れたようだな。」
「まだ身体は追いたがっております。」
「ならば足を縛っておけ。」
兄弟は軽口を交わしたが、その顔には緊張が残っていた。
一歩間違えば、香川勢は小笠原の弓隊へ届いていた。
逃がすためには、まず完璧に封じなければならない。
この戦の難しさを、彼らも身をもって理解し始めていた。
香川勢が退いた後、長景は那須のもとへ戻った。
頬には浅い傷がある。
退く途中、敵の矢がかすめたものだった。
那須はその傷を見て眉を寄せた。
「危険な役をさせた。」
「勝つための役に、危険でないものなどございませぬ。」
長景はそう答えた。
父の長時は息子の肩へ手を置く。
「退き方は悪くなかった。」
「父上に褒めていただくには、少々格好の悪い戦でした。」
「戦場で格好を求める者は、昨日の十河のようになる。」
長時の言葉に、周囲から小さな笑いが漏れる。
那須は東を見た。
香川勢は退いた。
しかし十河の陣へ戻ったわけではない。
少し離れた場所へ、独自に陣を置こうとしている。
同じ敵に敗れながら、十河と香川は互いの陣へ入ろうとしない。
「一つ、離れた。」
那須が呟いた。
忠世が意味を察する。
「三家の間が、ですか。」
「香川は十河を笑った。だから十河へ助けを求められぬ。」
「十河も香川の敗北を笑うでしょうな。」
「そうなれば、次も別々に来る。」
那須は海へ目を向けた。
沖には、安宅の船が残っている。
海上から二度の戦を見届けながら、まだ一兵も上げていない。
「残るは安宅。」
長時が言った。
「陸の二家が敗れた以上、水軍の誇りにかけて動くでしょう。」
那須は頷いた。
安宅は十河や香川とは違う。
海から来る。
退路も海にある。
陸上で道を空けるだけでは逃がせない。
船を沈めれば恨みが残り、船を逃がせば敗れたと思わない。
これまでとは違う勝ち方が必要だった。
その夜。
香川方の陣では、負傷した兵の手当てが行われていた。
死者は少ない。
だが兵の顔には、十河勢が退いた時とは異なる影があった。
自分たちは策を用いた。
十河の敗北を調べ、その逆を選んだ。
弓を盾で防ぎ、山側から回り込み、実際に小笠原勢を退かせた。
途中までは勝っていた。
そのはずだった。
だが気づけば、敵が用意した窪地の中にいた。
勝っていたという感覚そのものが、那須によって与えられたものだった。
「あれは退いたのではない。」
一人の将が呟く。
「我らを招いていたのだ。」
誰も否定できなかった。
一方、十河の陣では香川の敗北を聞き、嘲る声が上がっていた。
「策を弄して、我らより無様に囲まれたではないか。」
「やはり正面から押すべきだった。」
だが笑い声は長く続かなかった。
十河も香川も、同じ那須に敗れている。
違う方法を選び、違う場所で戦い、それでも同じように逃がされた。
その事実が、兵たちの胸へ静かに沈み始めていた。
沖の船上では、安宅方の武将たちが二家の敗北を見ていた。
「陸で戦うからだ。」
「那須は地形を使う。」
「ならば我らは、地形のない海から行く。」
船頭が潮の流れを読み、川之江の浜へ近づく道を示す。
安宅勢は夜のうちに動くことを決めた。
朝霧に紛れ、複数の浜へ兵を下ろす。
一方が那須軍を引きつけ、その隙に別働隊が川之江城の背後へ回る。
陸の武将にはできぬ戦だった。
同じ夜、那須もまた櫓から海を見ていた。
月明かりの下で、安宅の船影がわずかに動いている。
隣には長景がいた。
「明朝、来ますな。」
「来る。」
「どの浜へ。」
「一つではない。」
那須は沖の船を数えた。
いくつかの船が、互いの間隔を広げ始めている。
「我らを分けるつもりだ。」
長景は緊張した面持ちで尋ねた。
「どう迎えます。」
那須はしばらく答えなかった。
潮の音を聞く。
船を沈めずに、海から来る敵へ敗北を悟らせる。
命を奪わず、水軍の誇りだけを射る。
やがて那須は小さく笑った。
「帆を射よう。」
「帆を?」
「余市公の扇は、波間に浮かんでいた。」
那須は弓を手に取った。
「ならば我らも、海の上の扇を射る。」
二度の敗北を見届けた安宅勢は、なお自分たちだけは違うと思っている。
十河には武の誇りがあった。
香川には策の誇りがあった。
安宅には海の誇りがある。
那須は暗い海を見つめた。
三つ目の誇りを射る時が、近づいていた。




