扇を射る者
雪解けの川之江へ、摂津から新たな者たちが加わってから数日が過ぎた。
大久保忠世・忠佐の兄弟。
小笠原長時と、その子・長景。
いずれも国を離れ、仕えるべき主を求めて摂津へ集まった浪人である。佐野昌綱に見いだされ、本願寺の船と案内を得て、海を渡ってきた。
彼らが川之江へ入ってから、陣中の空気は少し変わった。
兵が大きく増えたわけではない。
大久保兄弟も、小笠原父子も、連れてきたのはそれぞれわずかな手勢にすぎなかった。
だが、そのわずかな兵がよく働いた。
大久保忠世は到着した翌日から兵糧と武具の数を調べ、弟の忠佐は城外の街道を自ら歩いた。小笠原長時は周囲の丘を見て回り、長景は弓兵を集めて射場を整えた。
彼らはまだ那須家の者ではない。
それでも、すでに自分たちの居場所を作ろうとしていた。
那須資忠は、その姿を黙って見ていた。
仕官を願う者を受け入れるのは容易い。
難しいのは、命を預けることである。
しかもこれから始まる戦は、普通の戦ではなかった。
敵を討てばよいのではない。
勝たねばならない。
しかし、勝ちすぎてもならない。
敵将を逃がし、もう一度立ち上がらせ、それをまた打ち破る。
剣で首を落とすより、よほど難しい戦だった。
夕刻、物見が駆け戻った。
「十河勢、東より進んでおります!」
「香川勢もこれに続く様子!」
「海上には安宅の船影あり!」
報告を聞いた那須は、城の櫓へ上がった。
霞の向こう、讃岐へ続く道に土煙が見える。
遠目にも旗の数は多かった。
敵は三家。
しかし、歩みは揃っていない。
十河勢が先へ出て、香川勢はその後ろを進む。海上の安宅勢は、陸の二家に合わせるというより、独自に動く機をうかがっていた。
長宗我部との戦いでは、彼らもまた敗れ、領地を追われかけた者たちである。
それでもなお、互いに主導権を譲ろうとはしない。
那須は静かに言った。
「三家の軍ではない。」
側にいた大久保忠世が視線を向ける。
「と申されますと。」
「一つの敵ではないということだ。」
那須は先頭を進む旗を指した。
「十河は武を示したい。」
次にその後ろを見る。
「香川は十河だけに功を取らせたくない。」
最後に海へ目を移す。
「安宅は陸の者に水軍の価値を見せたい。」
忠世はしばらく眺め、やがて頷いた。
「なるほど。互いに味方を見て戦っておりますな。」
「そうだ。」
那須はわずかに笑った。
「ならば我らは、三家を一度に破る必要はない。」
「三つの誇りを、一つずつ射ればよい。」
その夜、川之江城で軍議が開かれた。
中央には川之江周辺の地図が置かれていた。
海岸。
街道。
川筋。
低い丘陵。
湿地。
那須は敵の陣形ではなく、道と地形だけを示した。
「十河は本道を来る。」
小笠原長時が尋ねる。
「なぜ言い切れます。」
「先陣を譲らぬからだ。」
那須は答えた。
「最も広く、最も目立つ道を選ぶ。」
「香川勢はどうされます。」
今度は長景が問う。
「十河の後ろにつく。ただし、十河が崩れれば救わずに止まる。」
長時が薄く笑った。
「互いに競っている者は、味方の敗北を己の好機と考える。」
「左様。」
那須は海岸を指した。
「安宅は船を寄せる。だが初めから兵を上げはしまい。陸戦の様子を見る。」
大久保忠佐が身を乗り出した。
「では、まず十河を打つ。」
「打つ。」
那須は頷いた。
「しかし追わぬ。」
広間が静かになった。
古くからの那須家臣には、すでに陶の策が伝えられている。
だが、大久保兄弟と小笠原父子にとっては、改めて聞いても奇妙な命令だった。
忠佐は率直に尋ねた。
「勝てる時に追わぬのですか。」
「追えば十河は立ち直れぬ。」
「それが勝利では。」
「此度は違う。」
那須は脇に置いていた弓を取った。
「十河を滅ぼせば、香川と安宅は戦わずして退く。」
「そうなれば彼らは、敗れたとは思わぬ。」
長時が目を細める。
「十河を見捨てただけだと考える。」
「そして、いつかまた立つ。」
「だから三家とも、自ら我らへ挑み、自ら敗れねばならない。」
那須は弦を軽く鳴らした。
乾いた音が広間に響いた。
「祖・余市公は、屋島で人を射なかった。」
「扇を射た。」
「一矢で、敵味方すべての目を奪った。」
大久保忠世が問う。
「那須殿も、扇を射ると。」
「扇そのものではない。」
那須は答えた。
「彼らが武士として掲げているものを射る。」
「初めは旗。」
「次は策。」
「その次は誇り。」
「最後に、戦う心を射る。」
那須は皆を見渡した。
「敵将を討ってはならぬ。」
「退路を塞いでもならぬ。」
「我らの勝ちは、敵が生きて帰って初めて成る。」
新参の四人は、すぐには答えなかった。
常の戦場であれば、敵を多く討ち、将の首を取った者が称えられる。
この戦では、その武功を捨てなければならない。
やがて小笠原長時が深く頷いた。
「難しい戦ですな。」
「ゆえに、我らが要るのでしょう。」
大久保忠世も笑った。
「承知いたしました。」
「敵を逃がすために、まず確実に勝ちまする。」
翌朝。
空には薄い雲がかかっていた。
海から吹く風はまだ冷たかったが、日差しには確かな春の温もりがあった。
十河勢は正面から進んできた。
予想どおりだった。
先頭には大きな旗が掲げられている。
自らが三家の先陣であると、敵にも味方にも示すための旗であった。
その後方に香川勢。
さらに沖には安宅の船。
三家すべてが、十河の初戦を見ていた。
那須は三百ほどの兵を率いて城外へ出た。
敵から見れば、あまりにも少ない。
十河勢から嘲るような声が上がった。
「那須は臆したか!」
「兵を出せぬほど寄せ集めなのか!」
那須は答えなかった。
大久保兄弟を低地の陰へ伏せ、小笠原父子を左右の丘へ上げる。
残る兵を自ら率い、街道の正面へ立った。
退路は広く空けてある。
敵が進む道も一つだけに絞らない。
あえて隙のある布陣に見せた。
十河勢の先頭が勢いを増す。
「押し潰せ!」
「那須の首を取れ!」
槍を並べた兵が駆けてくる。
那須はまだ動かなかった。
五十間。
四十間。
三十間。
敵の顔が見える。
だが那須が見ていたのは兵ではない。
先頭の上に翻る大旗。
風に膨らみ、時折大きく傾く。
旗を支える竿ではない。
竿と横木をつなぐ結び目。
一度だけ大きく張りつめる瞬間がある。
那須は馬上で弓を構えた。
周囲の音が遠ざかる。
敵の叫びも、味方の息遣いも、海鳴りも消えた。
残ったのは風だけだった。
幼い頃より、何度も聞かされた祖の名。
那須余市。
屋島の波間で揺れる扇を射た男。
だが今、那須資忠の前にある旗は、波よりも激しく揺れていた。
外せば笑われる。
当てても敵兵は死なない。
それでよい。
そのための一矢だった。
「余市公。」
那須は小さく呟いた。
「これが、私の扇です。」
矢を放つ。
弦の音が鋭く響いた。
矢は街道の上を走り、迫る槍の列を越えた。
次の瞬間。
十河の大旗が大きく傾いた。
結び目を断たれた旗布が横木から外れ、先陣の上へ覆いかぶさる。
旗持ちが足を取られ、後ろの兵がぶつかった。
勢いに乗っていた先陣が一瞬で詰まる。
その一瞬を、大久保忠世は逃さなかった。
「今だ!」
低地から大久保兄弟が飛び出した。
忠世は槍隊を率いて十河勢の正面を受け、忠佐はわずかに右へ回り込む。
同時に丘の上から小笠原父子の矢が降った。
人の胸ではない。
足元。
旗。
槍を持つ手の周辺。
敵を殺しすぎず、ただ陣形だけを崩す射撃だった。
先陣の兵は混乱した。
大旗が落ちた。
左右から敵が現れた。
高所から矢が来る。
そして正面には、先ほどまで一騎で立っていた那須がいる。
「押し返せ!」
十河方の将が叫ぶ。
だが後続は前の混乱に巻き込まれ、前へ出られない。
香川勢は動かなかった。
助けに入れば十河を救える。
しかしそれは、十河の失敗を自分たちが支えることになる。
香川勢は戦況を見ることを選んだ。
海上の安宅勢も船を寄せない。
那須がそれを見て、静かに言った。
「やはり三つだ。」
十河勢は孤立した。
それでも那須は総攻撃を命じなかった。
先陣を押し返すだけ。
崩れた者を追わず、立ち止まった敵には射かけない。
やがて十河勢は耐えきれず退き始めた。
大久保忠佐が追おうとする。
「殿、ここで押せば!」
「追うな。」
那須の声が飛んだ。
「道を空けよ。」
忠佐は歯を食いしばった。
目の前には、背を向ける敵がいる。
追えば首が取れる。
武功になる。
だが彼は槍を止めた。
「退路を空けよ!」
那須軍が左右へ分かれる。
十河勢は不審そうにしながら、その間を抜けていった。
誰も背後から射ない。
負傷して動けぬ者にも槍を向けなかった。
十河方の将は退きながら、何度も振り返った。
敵は追ってこない。
それがかえって恐ろしかった。
負けた。
だが滅ぼされてはいない。
ならば、もう一度戦える。
その考えが胸に浮かんだ時、将は自分が那須の望むとおりに考えていることには気づかなかった。
戦が終わると、那須は街道に落ちた十河の大旗を拾わせた。
泥がついていたが、破れてはいない。
「城へ持ち帰りますか。」
家臣が尋ねる。
那須はしばらく旗を見た後、首を振った。
「畳んで返せ。」
周囲が驚いた。
「返すのですか。」
「旗がなくては、次に立てぬ。」
那須はそう答えた。
大久保忠佐が、ようやく策の意味を悟って苦笑する。
「本当に、また来させるおつもりですな。」
「来る。」
那須は東の街道を見た。
退いていく十河勢。
動かなかった香川勢。
船上からすべてを見ていた安宅勢。
「十河は、旗を射られただけだと思いたい。」
「香川は、自分なら違う戦いができると思う。」
「安宅は、陸の戦だから負けたと思う。」
那須は弓を握り直した。
「だから、皆来る。」
夕暮れには、畳まれた十河の大旗と、傷を負って捕らえられた兵たちが敵陣へ送り返された。
捕虜には水と握り飯が与えられ、傷には薬が塗られていた。
その夜。
十河方の陣では、返された大旗が再び広げられた。
矢は旗布ではなく、結び目だけを断っていた。
「偶然ではない。」
誰かが呟いた。
別の者が吐き捨てる。
「次は、あの弓を射る暇も与えぬ。」
香川の陣では、十河の敗北が冷ややかに論じられていた。
「先を急ぎすぎたのだ。」
「我らならば、あのようには崩れぬ。」
安宅の船では、那須軍の布陣が絵図へ写されていた。
「陸から行くから術中にはまる。」
「海から背後へ回ればよい。」
三家はそれぞれ、次なら勝てると考えた。
川之江城の櫓から三つの陣火を眺めながら、那須もまた、それを確信していた。
一度目の矢は、旗を落としただけである。
敵の誇りは、まだ折れていない。
「これでよい。」
那須は誰に聞かせるでもなく呟いた。
「次も来い。」
春の夜風が、弓の弦をかすかに震わせた。




