折鷹の策、完成
二月。
四国に春の気配が訪れる頃、戦乱の足音もまた確かに近づいていた。
伊予では準備が整っていた。
久万城は完成し、今治には兵糧が積み上げられ、河野家と岩成友通が兵站を預かる。那須資忠は川之江への出陣を待ち、本多正信は山間から土佐へ進む道を整えていた。
そんな折、松永久秀は那須、陶晴賢、本多正信の三人だけを静かな一室へ招いた。
酒もなく、机には四国の地図だけが広げられている。
松永はいつもの笑みを浮かべながら口を開いた。
「皆様に一つ、ご報告がございます。」
三人は黙って耳を傾ける。
「安宅殿、十河殿、香川殿より使者が参りました。」
那須が顔を上げる。
松永は扇を閉じると、あっさりと言った。
「調略への協力を願いたい、とのことです。」
部屋の空気が一瞬止まる。
しかし松永は悪びれる様子もなく笑った。
「もちろん、二つ返事で快諾いたしました。」
那須が思わず身を乗り出す。
「……なぜです。」
松永は静かに笑みを消した。
「昔よりの友でございます。」
「互いに国は違えど、同じ三好を支えた仲。」
「今さら私が剣を抜いて、彼らと殺し合う気にはなれませぬ。」
少しだけ目を伏せる。
「政務にも少々疲れましてな。」
「しばらく淡路へ戻り、床に伏せようかと思います。」
陶が小さく笑う。
「仮病か。」
「半分ほどでございます。」
部屋にわずかな笑いが生まれる。
松永は立ち上がる。
「ただし、本当に必要とあらば、いつでもお呼びくだされ。」
「その時は喜んで参りましょう。」
そう言い残すと松永は静かに席を立った。
障子が閉まる。
部屋には陶、那須、本多だけが残された。
那須は納得できない様子で陶を見る。
「陶殿。」
「なぜ松永殿は調略を受け入れたのです。」
「味方になるつもりなどないのでしょう。」
陶は地図の上へ指を置いた。
「だからだ。」
「もし松永が初めから我らの側につけば、どうなる。」
那須は考える。
「……安宅、十河、香川は。」
「戦わなくなります。」
陶は静かに頷いた。
「左様。」
「松永は三好水軍をまとめた男。」
「彼が敵と知れば三家は恐れて籠もる。」
「彼が味方と知れば安心して動かぬ。」
「どちらにしても戦は終わってしまう。」
陶は川之江を指で軽く叩く。
「しかし今、松永はあえて背中を押した。」
「彼らは『松永は理解してくれた』と思い、安心して兵を出す。」
本多が笑みを浮かべる。
「そして。」
陶も笑った。
「那須が勝つ。」
「一度勝ち。」
「逃がす。」
「また挑んでくる。」
「また勝つ。」
「そして、また逃がす。」
那須は静かに頷いた。
陶はさらに続ける。
「武士は一度の敗北では折れぬ。」
「だが、何度挑んでも勝てぬ現実には耐えられぬ。」
「その時、彼らの心は自ら折れる。」
本多は腕を組んだ。
「その頃には長宗我部も久万城へ引き寄せられておりますな。」
陶は満足そうに頷く。
「そのために私は、あれほど派手に城を見せびらかした。」
「敵の目は久万へ。」
「敵の心は川之江で折る。」
「そして土佐は、お主が揺さぶる。」
本多は深く一礼した。
「承知。」
陶は最後に三人を見回した。
「策はすべて揃った。」
「後は、それぞれが己の役目を果たすだけである。」
静かな部屋に頷く音だけが響いた。
こうして、久万城を囮とし、川之江で敵将の心を折り、本多が土佐を揺さぶる一連の構想――**『折鷹の策』**は、いよいよ実行の時を迎えようとしていた。




