第四十九話 四月・五月 ― 伊予の再生 ―
永禄九年四月。
三月から始まった那須資忠の伊予工作は、わずか一か月で大きな成果を上げていた。
那須は武力で押し切ることを避け、河野家と西園寺家の名の下に各地の豪族や寺社を巡り、伊予再興への協力を呼び掛けた。
「この戦は領地を奪うためではない。伊予を伊予人の手へ返すための戦だ。」
その誠実な姿勢は人々の心を動かし、長宗我部方についていた城々も次々と帰順していく。
激しい攻城戦はほとんどなく、四月には伊予の大半が河野・西園寺方へ戻っていた。
那須はその後、西園寺公広の館を拠点と定め、四月から五月にかけて伊予南部の安定に力を注いだ。
毎日のように斥候を各地へ放ち、山道や街道、城砦の様子を調べさせる。
同時に豪族や地侍との会談を重ね、帰順した者には旧領を安堵し、なお迷う者には武力ではなく言葉で協力を求めた。
西園寺公広もまた、自ら諸将へ書状を書き、南伊予のまとめ役として那須を支えた。
しかし、調略を進めるほど、那須は戦乱の傷跡を思い知ることとなる。
村には老人と女子どもが多く、働き盛りの若者は驚くほど少なかった。
長年の戦で討たれた者。
他国へ流れた者。
飢えを逃れるため故郷を離れた者。
城は残っていても、それを支える人が失われていたのである。
ある日、那須は西園寺館の庭から村を眺め、静かに言った。
「城は戻りました。しかし、人がおりませぬ。」
西園寺公広は深く頷いた。
「伊予はあまりにも長く戦い続けた。国を失うとは、民を失うことでもある。」
那須はしばらく黙っていたが、やがて決意を込めて答えた。
「だからこそ、残った若者は戦で失ってはなりません。」
「兵を集めるより、田畑へ戻し、国を立て直す者として育てるべきです。」
その方針に従い、那須は各地の豪族へ命じた。
「無理に兵を徴発するな。戦える者だけで十分だ。若者は田畑を守れ。」
武将でありながら、人を何よりの財と考える那須の姿勢は、伊予の人々に深い信頼を与えていった。
五月の終わりには、伊予の秩序は大きく回復し、河野家と西園寺家の協力体制も固まる。
那須は守備に必要な兵を各城へ配置すると、自らは選び抜いた精兵のみを率いることを決めた。
「伊予は守る者たちに任せよう。」
「私は本多殿と合流し、中村御所へ向かう。」
こうして伊予の基盤を築き上げた那須は、西園寺公広の激励を受けながら、新たな戦場である土佐へと歩みを進めるのであった。




