久万城 ― 四国反攻の礎 ―
永禄九年三月。
摂津で一か月に及ぶ軍議と準備を終えた四国方面軍は、いよいよ動き始めた。
しかし、最初に動いたのは那須資忠ただ一人であった。
「まずは戦ではない。伊予を取り戻す。」
那須は弓衆と少数の供回りだけを率いて伊予へ入り、河野家ゆかりの国人、寺社、豪族を一人ずつ訪ね歩いた。
長宗我部方となっていた城にも使者を送り、
「我らは伊予を奪うためではない。河野家と伊予の秩序を取り戻すために来た。降る者には旧領を安堵し、一兵たりとも傷つけぬ。」
と約した。
力ではなく誠意。
坂東兵学館で学んだその姿勢は伊予の人々の心を動かし、各地の城は次々と開門していく。
激しい攻城戦はほとんど起こらず、わずか一か月で伊予の大半は再び河野方へ帰順した。
四月。
伊予の情勢が落ち着くと、那須は守備兵だけを各城へ残し、自らは選び抜いた弓衆と足軽衆のみを率いて本多正信と合流する。
本多は既に四国山地の山道を調べ尽くし、中村御所へ通じる裏道を押さえていた。
地図を広げた本多は静かに言う。
「御所を落とす必要はありません。敵をここへ縛り付ければ、それで勝ちです。」
那須も頷いた。
「長宗我部が兵を集める間に、四国は動く。」
二人は精兵だけを率いて中村御所へ進軍を開始した。
その目的は決戦ではない。
包囲し、補給路を脅かし、各地へ使者を放ち、長宗我部元親を土佐へ釘付けにする時間稼ぎであった。
その頃、伊予に残った兵はすべて久万高原へ向かっていた。
陶晴賢は久万高原で縄張り図を広げ、弘中隆包、内藤隆世、冷泉隆豊ら旧大内家臣団を前に言う。
「この城は飾りではない。四国を支える背骨となる。」
深い空堀。
幾重もの土塁。
複雑に折れ曲がる虎口。
逆茂木と木柵。
兵糧蔵と見張り台。
そして山腹には兵たちが自由に天幕を張り、いつでも戦えるよう整えられていく。
石垣も天守もない。
だが、実戦だけを追い求めた堅牢な山城であった。
城の名は、そのまま地名を取り、
「久万城」
と定められた。
「久しく万の民を守る城。」
陶はその名をことのほか気に入り、自ら筆を執って城門へ掲げさせた。
築城が始まると、その噂は畿内にも届く。
下間頼廉は本願寺の門徒へ触れを出した。
「四国へ赴き、乱世を終わらせんと志す者は名乗り出よ。」
越前、越中、加賀、三河、摂津、河内。
各地から志願した門徒たちが久万高原へ集まる。
松永久秀もまた淡路から旧三好勢や四国出身の武士を送り出した。
「故郷を取り戻したい者は、久万城へ向かえ。」
篠原長房も河内で旧三好家臣へ告げる。
「帰りたい者は帰れ。四国はお前たちの故郷だ。」
さらに、陶晴賢生存の報を聞いた旧大内家臣団も長門や豊後から続々と集結した。
弘中一族。
内藤一族。
冷泉家。
そのほか、かつて大内家に仕えた武士たちが再び陶の旗の下へ集う。
昼夜を分かたぬ築城は休むことなく続き、夏には空堀と土塁、兵糧蔵、見張り台など城の基礎が完成した。
久万高原には兵と職人が絶え間なく行き交い、一つの城下町が生まれ始める。
そして冬。
久万城はついに完成した。
完成した城には弘中隆包、内藤隆世、冷泉隆豊をはじめとする陶家臣団が常駐し、伊予と土佐を結ぶ要衝として四国反攻の拠点となる。
一方その頃、中村御所では、那須資忠と本多正信の精兵が長宗我部軍を巧みに牽制し続けていた。
前線では那須と本多が敵を引きつけ、後方では陶が久万城を築く。
この三者の役割分担こそが、四国反攻を支える揺るぎない礎となっていくのであった。




