那須家誕生
永禄九年(1566年)一月。
毛利家への新年の使節を終えた一行は、摂津・伊丹城へ戻ると、しばし戦を忘れて身体を休めた。
那須資忠は弓の手入れをしながら四国で得た見聞を整理し、本多正信は各地で集めた情報を書きまとめる。
陶晴賢もまた、長い旅の疲れを癒やしながら、旧臣である問田重晴、杉賢盛らとの再会を喜んでいた。
一方、佐野昌綱は抜刀隊や足軽を再編し、四国へ向かう兵を選抜する。
伊丹城には畿内だけでなく、西国からも志ある武士が次々と集まり始めていた。
そんな折、小田氏治から正式な書状が届けられる。
氏治は評定の席で静かに告げた。
「四国のことは、これより那須殿に一任する。」
「ただし、名目は小田家ではない。」
居並ぶ諸将が氏治へ視線を向ける。
氏治は続けた。
「小田があまりに西国へ深く関われば、諸大名は天下を望むものと疑うであろう。」
「それは我らの本意ではない。」
「ゆえに、これより那須殿は那須家当主として独立した旗を掲げて動かれよ。
四国での働きは那須家の軍として行い、小田家はこれを支援する立場に留める。」
那須は静かに一礼した。
「承知いたしました。」
「那須の名を掲げ、西国の安定のため尽力いたします。」
氏治は穏やかにうなずく。
「困った時は、遠慮なく頼られよ。」
「だが表に立つのは那須家だ。」
「小田は後ろから支える。」
この決定は、西国に無用な警戒を抱かせぬための配慮であった。
東国の雄・小田が勢力拡大を狙っているという風評を抑えつつ、四国では那須家が独立した武家として動く。
それが氏治の描いた新たな均衡であった。




