新春、亡霊来たる
永禄九年(1566年)正月。
瀬戸内は穏やかな凪に包まれていた。
坂東の旗を掲げた一隻の大型船が、ゆっくりと安芸へ入港する。
船上に立つのは、小田左京大夫氏治。
その傍らには、摂津を預かる佐野昌綱。
さらに、盲目の琵琶法師にして名医・空蝉。
そして、一人の僧形の男が静かに海を眺めていた。
男は深く笠を被り、その顔はまだ誰にも見えない。
毛利家では、新年の使者として小田氏治一行が来訪するとの知らせを受け、元就をはじめ隆元、吉川元春、小早川隆景らが出迎えの支度を整えていた。
「坂東の若き当主が自ら参るとは。」
元就は静かに笑う。
「よほど何か伝えたいことがあるのであろう。」
やがて広間へ四人が通される。
氏治は進み出て深々と一礼した。
「新年、誠におめでとうございます。本年も両家に変わらぬご縁がありますよう、ご挨拶に参りました。」
元就も穏やかに頷く。
「遠路ご苦労であった。」
氏治は供の者へ目配せする。
まず献上されたのは、一枚の見事な虎皮であった。
黄金色の毛並みは陽光を受けて輝き、家臣たちから思わず感嘆の声が漏れる。
「勇猛なる毛利家に最もふさわしき品と存じます。」
続いて佐野昌綱が一振りの刀を差し出した。
「武を敬う心に国境はございませぬ。どうか末永くお納めください。」
元就は静かに礼を述べる。
「ありがたく頂戴いたそう。」
その時である。
氏治は後ろに控える僧へ向き直った。
「最後に、どうしてもお会いしたいと望んだ者がおります。」
僧はゆっくりと前へ歩み出る。
笠を取り、静かに一礼した。
「……お久しゅうございます。」
その顔を見た瞬間。
広間の空気が凍り付いた。
誰一人、声を出せない。
隆元が目を見開く。
元春は思わず立ち上がる。
隆景の扇が畳へ落ちた。
「……ばかな。」
「そんな……。」
「あり得ぬ……。」
家臣たちがざわめき始める。
「陶……。」
「陶晴賢だと……。」
「厳島で討たれたはずでは……。」
誰かが息を呑む音が響く。
亡霊を見たような顔とは、まさにこのことであった。
そして、元就。
その瞳は大きく見開かれ、しばらく言葉を失う。
顔色がみるみる青ざめ、手が震える。
「晴……賢……。」
長年積み重ねてきた冷静さが、この瞬間だけ崩れ去った。
「お、お館様!」
隆元が慌てて支える。
空蝉は一歩前へ出ると、静かに元就の脈へ指を添えた。
「驚きが強すぎましたな。」
「どうかご安心ください。」
「目の前におられるのは亡霊ではございませぬ。血の通った、生きた人でございます。」
陶は苦笑しながら深く頭を下げる。
「ご心配をお掛けしました。」
「私は、生きております。」
元就はようやく息を整え、大きく息を吐いた。
「……まことに。」
「あと少しで、わしの寿命の方が尽きるところであったわ。」
その一言に張り詰めていた空気がほどけ、広間には安堵と苦笑が広がった。
こうして、新年の賀礼は、戦国の誰一人として予想もしなかった再会から幕を開けるのであった。




