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河野の決断

河野通直は静かに立ち上がると、障子を開けた。


眼下には城下町が広がり、その先には瀬戸内の穏やかな海が夕日に染まっていた。


「晴賢。」


「わしには実子がおらぬ。」


陶晴賢は黙って耳を傾ける。


「一族に継がせることも考えた。」


「だが、今の伊予へ来たがる者はおらぬ。」


河野は苦く笑った。


「長宗我部が日に日に力を増しておる。」


「皆、この国はいずれ呑まれると思うておるのじゃ。」


「滅びゆく家など、誰も継ぎたがらぬ。」


静かな言葉だった。


しかし、その諦めは長い年月を戦国で生きた者にしか持ち得ぬ重みを帯びていた。


「河野家は、わしの代で終わろう。」


「それはもう受け入れておる。」


那須も本多も口を挟まなかった。


河野はゆっくりと陶へ向き直る。


「じゃがな。」


「お主が現れた。」


「死んだはずの男が、再びこの世へ戻ってきた。」


「これほど奇妙な縁もあるまい。」


陶は静かに頭を下げる。


「河野殿……。」


河野は力強く言った。


「晴賢。」


「家は要らぬ。」


「河野の名が残らずともよい。」


「だが、この伊予だけは守ってくれ。」


「民を守り、寺を守り、港を守ってくれ。」


「それができる男は、お主しかおらぬ。」


陶はしばらく黙っていた。


やがて深く一礼する。


「河野家を継ぐ資格は、私にはございません。」


「ですが、伊予を守れと仰せなら、その命ある限り力を尽くしましょう。」


その言葉を聞いた河野は、長い間胸につかえていたものが下りたように微笑んだ。


その時、本多正信が静かに口を開く。


「河野殿。」


「一つ、お耳に入れておきたいことがございます。」


河野は首を傾げる。


「晴賢殿には、お孫がおられます。」


陶も少し驚いた表情を見せる。


本多は続けた。


「兵学館に学び、坂東で修練を積んでおります。」


「まだ若くございますが、将来を期待されるお方です。」


河野の目が見開かれた。


「……そうか。」


「晴賢の血は、まだ続いておるのか。」


その声には、先ほどまでの諦めはなかった。


河野は何度も頷き、ゆっくりと笑う。


「ならば、なお良い。」


「家とは名ではない。」


「志が受け継がれることこそ家よ。」


「その子が育つまで、この伊予を守ればよい。」


先ほどまで滅びを受け入れていた老将の瞳には、久方ぶりに生気が宿っていた。


陶もまた、その表情を見て静かに微笑んだ。


乱世は多くを奪った。


だが、人の志までは奪うことはできない。


その日、河野通直は初めて、自らの後に続く未来を信じることができたのであった。

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