金毘羅の策 ― 亡霊たちの命名
讃岐・金毘羅神社。
社務所には夕刻の静けさが満ち、障子越しに差し込む橙色の光が畳を染めていた。
松永久秀は手慣れた様子で茶を点てる。
「……さて。」
湯気の立つ茶碗を陶晴賢の前へ置くと、陶は一口も口をつけず松永を見つめた。
「先遣隊とは、一条殿のことだな。」
松永は黙って笑う。
陶は続けた。
「長宗我部へ向かわせる。戦えば功は立つ。負ければ威信は落ちる。勝っても疲弊する。そして背後には、お前と那須殿が控え監視する。」
「つまり――」
「助けるためではない。」
「戦わせるために送り出す。」
一瞬、静寂が流れた。
次の瞬間。
松永は腹を抱えて笑い出した。
「はっはっはっはっ!」
「御名答!」
「さすがは陶殿だ。話が早い。」
茶碗を持ち上げ、一口すすって満足そうに頷く。
「その通り。」
「一条には名誉も必要だ。」
「だが自由にされても困る。」
「ならば敵を与え、功を競わせる。」
「勝てば我らが助けた英雄。」
「敗れれば我らが救う。」
「どちらへ転んでも恩は我らに残る。」
陶もようやく茶を口にした。
「私の策をそのまま採るか。」
「もちろんだ。」
松永は悪びれもしない。
「良い策は使う。」
「使わぬ方が失礼だ。」
陶は苦笑した。
「そこまで言うなら、好きに使え。」
すると松永は急に真面目な顔になる。
「いや。」
「採用した以上、礼は尽くそう。」
「この策、名付け親は陶殿だ。」
「記念に名を付けていただきたい。」
陶は腕を組み、少し考える。
「……そうだな。」
静かに目を閉じ、
やがて口を開いた。
「『先鷹の計』。」
松永が眉を上げる。
「鷹?」
陶は頷く。
「鷹はまず獲物を飛ばし、疲れたところを本命が仕留める。」
「一条は囮ではない。」
「獲物でもない。」
「だが先に飛ぶ鷹だ。」
「我らは後ろから風向きを読み、必要なら支える。」
「名誉も与え、逃げ道も残す。」
「それでいて手綱は離さぬ。」
松永は満足そうに膝を打った。
「いい。」
「実にいい。」
「今日よりこれは**『先鷹の計』**だ。」
二人は顔を見合わせると、
まるで新しい茶器でも手に入れたかのように笑った。
その様子を見ていた那須資忠だけは、
なんとも言えない顔になる。
「……。」
「お二人とも。」
松永と陶が同時に振り向く。
「何だ?」
「何かな。」
那須は困ったように頭を掻いた。
「長宗我部と戦になるかもしれない話をしているのに……。」
「どうしてそんなに楽しそうなのです。」
「策に名前まで付け始めるなんて。」
「普通はもう少し深刻になるものではありませんか。」
一拍。
松永と陶は顔を見合わせ、
同時に吹き出した。
「はっはっはっ!」
「ふふふ。」
松永は笑いながら言う。
「那須殿。」
「戦は嫌いだ。」
「だからこそ、始まる前に終わらせる策を考える。」
陶も静かに続けた。
「剣を抜く前に勝敗が決まるなら、それが一番人は死なぬ。」
「策を楽しめる余裕があるうちに勝つ。」
「それが兵法というものだ。」
那須は二人を見比べ、
苦笑しながら茶碗を手に取った。
「……やはり。」
「私には、お二人が時々恐ろしく見えます。」
松永は肩をすくめる。
「安心されよ。」
「恐ろしいのは策だけだ。」
陶は小さく付け加えた。
「人は、なるべく生かしたい。」
金毘羅の社に、三人の笑い声が静かに響いた。




