対の茶碗
梅雨の雨はなおも静かに降り続いていた。
気比分社の旧本丸では、紫陽花が雨露をまとい、美しく咲き誇っている。
空蝉は社務を終えると、縁側で佐野と向かい合い茶を点てた。
「久方ぶりに、ゆっくりなされませ。」
佐野は笑って頷く。
「一月に伊丹へ入ってから、ようやく一息つけました。」
そこへ千陽が静かに姿を現した。
両手には桐箱を抱えている。
「佐野様、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。」
「もちろんです。」
千陽は縁側へ座ると、桐箱を開いた。
中から現れたのは乳白色の美しい茶碗。
「堺で氏治様より頂いた茶碗です。」
佐野も懐かしそうに頷いた。
「懐かしいですね。」
「私は毎日使っております。」
そう言って佐野は自らの茶碗を差し出した。
しかし、その茶碗は紫黒く落ち着いた色合いをしていた。
千陽は不思議そうに首を傾げる。
「同じ陶工の作なのに……。」
「随分違いますね。」
空蝉が茶碗を受け取る。
しばらく眺めると、小さく笑った。
「なるほど。」
「これは茶碗の色ではございませぬ。」
佐野が驚く。
「違うのですか。」
「ええ。」
空蝉は湯を張った鉢と柔らかな布を用意した。
「長旅で傷まぬよう、保護の蝋が塗られていたのでしょう。」
「堺から船で運ばれる間、夏の船倉はかなり暑くなります。」
「熱で蝋が柔らかくなり、包みに使われた紫染めの布の色を吸ってしまったようです。」
佐野は思い返す。
「そういえば……。」
「忙しさに追われ、そのまま使っていました。」
一月に入城して以来。
戦後処理。
領内復興。
迎賓館の普請。
朝廷への奏上。
任官。
息つく暇もなく、茶碗の手入れをすることすら忘れていた。
空蝉は丁寧に茶碗を拭いていく。
布を重ねるたび、紫黒い色は少しずつ薄れていった。
やがて最後まで磨き終えると、本来の器肌が姿を現す。
柔らかな乳白色。
千陽の茶碗と寸分違わぬ色であった。
二つを並べる。
形。
口縁。
高台。
釉薬の流れ。
まるで最初から一対として焼かれたように調和している。
佐野は目を丸くした。
「……同じ。」
空蝉は静かに笑った。
「同じではございませぬ。」
「対でございます。」
「氏治様は、最初から夫婦茶碗としてお贈りになったのでしょう。」
縁側に静かな雨音だけが響く。
千陽は二つの茶碗を見つめ、優しく微笑んだ。
「氏治様らしい計らいですね。」
佐野もようやく意味を悟る。
「そういうことでしたか……。」
千陽は佐野へ向き直る。
その瞳は紫陽花のように穏やかで、どこか決意に満ちていた。
「佐野様。」
「お願いがございます。」
「兄上は最期に、私をあなたへ託されました。」
「この半年、私はずっと見てまいりました。」
「戦を終わらせるだけではなく、人々が笑い合える場所を築こうとするお姿を。」
「迎賓館も。」
「祭りの広場も。」
「この紫陽花も。」
「皆、人の幸せのためにございました。」
千陽はそっと二つの茶碗を並べた。
「けれど、佐野様だけはご自身の幸せを後回しになさいます。」
「ですから。」
一度深く息を吸う。
「私と、夫婦になってください。」
「この茶碗が、本来の役目を果たせるように。」
雨音だけが静かに響く中、佐野は驚きながらも、その言葉を胸いっぱいに受け止めていた。




