第二の名
春の陽光が伊丹城の広間へ差し込んでいた。
四国を巡る軍議も終盤を迎え、鹿島には博多・長崎で西国商人から長宗我部の風聞を集める密命が与えられた。
一方、那須資忠はいよいよ遍路姿となり、松永久秀と篠原長房の紹介状を携えて四国へ渡ることが決まる。
その時、佐野は静かに口を開いた。
「那須。」
「はい。」
「一人で行かせるつもりはない。」
広間の者たちが佐野を見る。
「同行していただきたい方がおられる。」
佐野は一人の男へ視線を向けた。
「陶殿。」
陶はゆっくりと頭を下げた。
「私でございますか。」
「はい。」
佐野は頷く。
「四国は瀬戸内の延長です。河野、村上、毛利、そして西国諸家を知る者が必要になります。」
陶は苦笑した。
「お気持ちはありがたい。」
「ですが、それは難しゅうございます。」
「私は毛利との戦で討ち死にしたことになっております。」
広間は静まり返った。
陶晴賢。
中国にその名を知らぬ武将はいない。
もし四国でその姿を見た者があれば、たちまち西国中へ噂は広がるだろう。
しかし佐野は穏やかに笑った。
「だからこそ、名を変えていただきます。」
「……ほう。」
「今日より旅の間、あなたは陶晴賢ではありません。」
「住吉晴賢。」
その名を聞くと、松永久秀が小さく笑った。
「住吉とは、また摂津らしい名でございますな。」
「住吉大社へ参詣する隠居武士。」
「それならば誰も不思議には思いますまい。」
一色藤長も頷いた。
「髭を蓄え、衣を改めれば、よほど近しい者でなければ気付きますまい。」
陶は静かに目を閉じた。
「死者が別の名で生きる……。」
「不思議な巡り合わせですな。」
佐野は首を横に振る。
「いいえ。」
「あなたは隠れるために名を変えるのではありません。」
「再び名乗る日のためです。」
陶はゆっくり顔を上げた。
佐野は真っ直ぐ陶を見つめる。
「いずれ情勢が整い、西国にあなたの居城を用意できる日が来ます。」
「その時は、住吉晴賢ではありません。」
「堂々と陶晴賢へ戻っていただきます。」
広間に沈黙が落ちた。
佐野は続ける。
「死んだはずの陶晴賢が、新たな城主として再び姿を現した。」
「その報せが中国へ届けば――。」
松永久秀は扇を閉じて笑う。
「毛利は腰を抜かしましょうな。」
篠原長房も珍しく笑みを浮かべた。
「西国は大騒ぎになります。」
少弐は腕を組む。
「味方は歓喜し、敵は亡霊が帰ってきたと思うでしょう。」
陶はしばらく黙っていた。
やがて深く頭を下げる。
「……佐野殿。」
「そのような日を、私のために考えてくださっていたのですか。」
「もちろんです。」
佐野は即座に答えた。
「あなたは戦で敗れたから価値があるのではない。」
「その才を失うには惜しい人物だから、お迎えしたのです。」
陶は目を閉じ、小さく笑った。
「ならば。」
「その日まで、私は住吉晴賢として生きましょう。」
「そして再び陶晴賢の名を名乗る時は、その名に恥じぬ働きをお見せいたします。」
佐野は力強く頷いた。
「期待しております。」
こうして西国において一度死んだ名将は、新たな名を授かり、再び乱世を歩み始めた。
誰も知らない。
住吉晴賢と名乗る一人の旅人が、やがて中国・四国を震わせる「陶晴賢復活」の序章となることを。




