霞浦兵学館と歴史の修正
天文十五年、師走。
春より霞ヶ浦湖畔で進められていた大工事が、ついに完成した。
新たな学び舎――霞浦兵学館である。
館の初代学長には異国の将モンケが迎えられ、その下にはシャムやルソンから招かれた傭兵団の将校たちが教官として並んだ。彼らは兵法、鉄砲、築城、兵站、測量、異国の戦術など、東国では誰も知らぬ知識を惜しみなく伝える。
兵学館は十歳から十五歳までの五年間を全寮制とし、生徒には家柄を問わず給金が支給された。衣食住はすべて館が負担し、卒業後に小田家へ仕えるかどうかは本人の自由とされた。
さらに、卒業試験で特に優秀な成績を収めた者だけは、自由都市土浦で四年間学ぶことを許される。
しかし、その四年間に教師はいない。
学ぶ場所も方法も自ら選ぶ。
商館で異国商人から商いを学ぶ者、鍛冶場で鉄砲や砲の研究をする者、港で航海術を身につける者、役所で行政を学ぶ者。それぞれが己の志に従って知識を深めるのである。
ただ一つだけ義務があった。
定期的に土浦城へ赴き、氏治へ学びの成果を報告すること。
氏治はその報告を聞き、必要なら助言を与えるだけで、何を学ぶかは本人に委ねた。
「学びとは、人から与えられるものではない。自ら掴み取るものだ。」
それが霞浦兵学館と土浦高等課程の理念であった。
兵学館の視察を終えた帰り道、モンケがふと尋ねた。
「ところで、殿はおいくつになられたのでございますか。」
その一言で、その場にいた誰もが顔を見合わせた。
改革に次ぐ改革。
未来の知識。
異国との交易。
時間の感覚がすっかり曖昧になっていたのである。
家臣が系図を調べる。
「殿は今年、十歳にございます。」
「十歳……。」
モンケは思わず目を丸くした。
その時、陳が真顔で言った。
「私は、もう四百歳くらいになっておられるのかと思いました。」
一瞬静まり返った後、広間は大爆笑となる。
「四百歳とは何だ!」
「仙人でもあるまい!」
氏治も笑った。
「陳、それでは私は化け物ではないか。」
陳は悪びれず一礼する。
「殿のなさることは、四百年先まで見通しているようにしか思えませぬ。」
再び笑いが起きる。
だが、その冗談は氏治と治彦の胸にだけ深く突き刺さった。
(四百年……。)
二人は二〇〇〇年代の日本から来た人間である。
未来を知る者。
陳はもちろん何も知らない。
ただの冗談でしかない。
しかし、その冗談は誰よりも真実に近かった。
笑いが収まると、氏治は真壁、宍戸、治彦だけを伴って土浦へ戻った。
小田家当主・小田政治は今も小田城で政務を執っている。
一方、氏治は自由都市となった土浦の整備と政務を任され、その執務は土浦城で行っていた。
執務室へ入ると、氏治は静かに口を開く。
「……何かがおかしい。」
「何がおかしいのでございます。」
真壁が尋ねる。
「私の年齢だ。」
氏治は遠くを見るような目をした。
「この世界では私は十歳。しかし、史実なら今の私は二十歳ほどになっているはずだ。」
治彦もうなずく。
「俺の記憶でもそうだ。」
氏治は続けた。
「それだけではない。史実なら父上は二年前に亡くなられている。」
真壁と宍戸は驚いた。
「しかし御屋形様は今も小田城で壮健にございます。」
「毎日評定に出られ、普請にも目を通しておられます。」
氏治は安堵しながらも首を横に振った。
「だが、近頃、胸を押さえて咳をされることがあると聞いた。」
「はい。時折ではございますが……。」
氏治は目を閉じた。
歴史は変えられる。
だが、そのたびに別の形で辻褄を合わせるように修正されてきた。
朝久の運命も。
八田知家の運命も。
幾度となく見てきた。
「父上も……歴史の修正を受けているのかもしれない。」
治彦は静かに答えた。
「助かるかもしれない。でも、修正が別の形で来るかもしれない。」
「だからこそ。」
氏治は迷いなく言う。
「備える。」
父を救う努力は決して諦めない。
だが、もしその日が来ても、小田家が揺らがぬよう国を整え、人を育て、制度を築く。
兵学館も、自由都市土浦も、そのための礎であった。
未来は、もはや史実ではない。
だからこそ氏治は、未来の知識に頼るのではなく、この世界の現実を見据えて歩むことを決意する。
冬の夕日が土浦城の執務室を赤く照らしていた。
若き氏治は十歳。
しかし、その覚悟は誰よりも重く、誰よりも遠い未来を見据えていた。




