慶事と四国動乱の兆し
永禄九年正月。
土浦城では、新年最初の評定が開かれていた。
氏治は上座に座ると、軍議に入る前に穏やかな表情で諸将を見回した。
「まずは皆へ伝えておきたいことがある。」
広間は静まり返る。
「昨年、黄梅院が無事に男子を産んだ。」
その言葉に、一同から祝いの声が上がった。
「まことにおめでとうございます。」
「若君のご誕生、坂東の慶びにございます。」
武田信繁をはじめ旧武田の家臣たちは、とりわけ深く頭を下げる。
黄梅院は武田晴信の娘。
その男子の誕生は、小田と武田、両家を結ぶ新たな命であった。
氏治は静かに頷く。
「母子ともに健やかである。」
「この子らが戦ばかり知らぬ世を築くことこそ、我らの務めだ。」
祝いの空気が落ち着いた頃、一人の早馬が城へ駆け込んだ。
「伊丹より急使にございます。」
結城朝基が書状を受け取り、氏治へ渡す。
佐野昌綱からの書であった。
畿内はようやく安定したこと。
しかし四国では長宗我部と旧三好勢、河野、一条が各地で争い始めたこと。
そして一条家より救援を求める使者が来たことが記されていた。
読み終えた氏治は、ゆっくりと四国の地図を広げる。
「……佐野は動けぬ。」
「摂津・河内・和泉を治め始めたばかりだからな。」
結城朝基も頷く。
「ここで畿内が空けば元も子もありません。」
氏治は静かに口を開く。
「だが、藤原の縁として一条へ肩入れすれば話は変わる。」
「長宗我部はもちろん、毛利、島津まで小田が西へ出ると警戒する。」
「それは今ではない。」
広間は静まり返る。
氏治は地図の四国を見つめた。
「まず知ることだ。」
「戦う前に、その国を知らねばならぬ。」
氏治は那須資忠を呼んだ。
「資忠。」
「はっ。」
「お前は客将として一条家へ赴け。」
「援軍ではない。」
「四国の山河、街道、城、人心を見てまいれ。」
「戦うべき時が来るまで、まずは四国を知るのだ。」
那須は深く頭を下げた。
「御意。」
続いて氏治は鹿島政清へ目を向けた。
「政清。」
「はっ。」
「まず摂津へ向かえ。」
「土浦の甲冑師と鍛冶、そして氏康殿よりお預かりした相州伝の名工たちを、佐野へ送り届けよ。」
鹿島は静かに頷く。
「承知いたしました。」
氏治はさらに続ける。
「その後は佐野の配下として、松永久秀殿の寄騎となり淡路へ入れ。」
「港を歩き、商人と語り、船頭と酒を酌み交わせ。」
「四国へ渡る者、四国から来る者、その話を聞け。」
「戦だけでは国は分からぬ。」
「海から四国を知るのがお前の役目だ。」
鹿島は力強く答えた。
「必ずや。」
結城朝基は二人を見比べ、静かに微笑む。
「那須は陸より。」
「鹿島は海より。」
「坂東の眼が、四国を見守るわけですな。」
氏治は満足そうに頷いた。
「急いてはならぬ。」
「今は介入する時ではない。」
「だが、知ることを怠れば、いずれ助けることもできぬ。」
こうして小田家は軍勢を動かすことなく、二人の将へ異なる使命を授けた。
一人は土佐へ。
一人は淡路へ。
その静かな一手は、やがて四国の命運を左右する布石となっていくのであった。




