河内動乱の始まり
伊丹城での評定を終えると、佐野昌綱は約定どおり河内一国の統治を篠原長房へ委ねた。
「河内は戦で奪うより、治めてこそ価値がある。」
その言葉を胸に、篠原は選抜した兵を率いて河内へ入る。
篠原の入国は秩序だったものだった。旧三好勢をまとめ、寺社へ禁制を掲げ、町や村には略奪を厳しく禁じる。まずは戦ではなく、統治を示そうとしたのである。
しかし、その報せは高屋城にも届いた。
畠山高政は静かに立ち上がる。
「河内へ旧三好の将を置くというか。」
怒りというより、名門としての矜持がその胸を満たしていた。
「河内は代々、我ら畠山が守護として治めてきた国。いかに天下の形勢が変わろうとも、この国を他家へ渡すことはできぬ。」
高政はただちに家臣を集めると、河内各地、紀伊、近江、備前へ使者を走らせた。
檄文には力強く記されていた。
«「河内は畠山の国なり。
旧恩ある者、武門の義を知る者は高屋へ馳せ参じられよ。
今こそ守護家再興の時である。」»
この檄に応じ、河内の旧臣や国衆は次々と高屋城へ集まり始めた。
ある者は旧主への忠義から。
ある者は佐野政権への不満から。
ある者は名門畠山の旗に望みを託して。
その数は日に日に増え、高屋城の周囲には無数の旗が翻る。
さらに畠山高政は援軍も求めた。
備前へは西国の情勢を見据えた援軍要請を送り、近江の六角家には「ともに佐野の勢力拡大を阻もう」と密書を送る。
だが、備前はなお情勢を見極めるとして静観を選んだ。
一方の六角家では意見が割れた。
「河内で佐野を討つ好機。」
「いや、今は織田との戦いを優先すべきだ。」
六角義治は決断を急がず、使者へ「追って返答する」とだけ告げる。
その頃には、河内国内ですでに武力衝突が始まっていた。
篠原長房は着陣間もなく畠山軍と激突する。
こうして、河内の命運を懸けた新たな戦いの火蓋が切られたのである。




