父の約束
評定を終えても、佐野にはまだやるべきことが山のように残っていた。
城下町の視察。
町衆との顔合わせ。
普請の確認。
住吉大社への奉納。
気比神社分社建立の準備。
どれも領主として急ぐべき務めであった。
だが佐野は、そのすべてを翌日に回した。
「今日は、まず千陽と話す。」
そう一言だけ告げると、家臣たちも何も言わず頭を下げた。
静かな足取りで現御殿へ向かう。
庭を望む縁側には、一人の少女が座っていた。
足利将軍家の姫、千陽。
兄・義輝を失い、奈良へ避難し、戦が終わると伊丹城へ移された十六歳の姫である。
佐野の気配に気づくと、千陽は立ち上がり、静かに頭を下げた。
「お帰りなさいませ、佐野様。」
「待たせたな。」
二人は縁側へ腰を下ろした。
庭では職人たちが忙しく動き、普請の槌音だけが規則正しく響いている。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて佐野が静かに切り出す。
「……すまなかった。」
千陽は驚いたように顔を上げた。
「兄上を守れなかった。」
短い言葉だった。
言い訳も、自らの功も語らない。
ただ、その事実だけを口にした。
千陽は目を伏せ、小さく息をつく。
「佐野様は……助けようとしてくださいました。」
「だが助けられなかった。」
再び静寂が流れる。
やがて千陽は、かすかに微笑んだ。
「京都では、市中をご一緒し、堺も見て回りました。」
「そうだったな。」
「あの頃は、とても楽しかったのです。」
その声は穏やかだったが、どこか遠くを見ているようでもあった。
「佐野様のお話は面白く、兄上も楽しそうで……私も、あの時間が好きでした。」
佐野は黙って耳を傾ける。
「だから私は……佐野様のことを、お慕いしておりました。」
その言葉に、佐野は何も返さない。
千陽は首を横に振った。
「でも、それはあの日までです。」
二条御所の炎。
兄を失ったあの日から、時間だけが止まっていた。
「今はまだ……そのような気持ちにはなれません。」
涙は流さなかった。
けれど、その一言には、これまで押し殺してきた悲しみが込められていた。
佐野は静かにうなずく。
「それでいい。」
千陽はゆっくりと顔を上げる。
「心は、命じても変わらぬ。」
佐野は庭を見つめながら続けた。
「私は待つ。」
「……。」
「お前が笑える日が来るまで。」
「兄上を思い、泣きたいなら泣けばいい。怒りたいなら怒ればいい。」
「私は、お前を急がせるつもりはない。」
千陽は唇を噛み、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます……。」
秋風が庭木を揺らした。
普請の音は、新しい国が築かれていく音だった。
しかし佐野は、その国づくりよりも先に、一人の少女の心と向き合うことを選んだ。
それが、義輝へ果たすべき最後の約束であると信じていたからである。




