四月 ― 春雨の陣と海の荷止め
四月。
生駒山での敗北を糧とした三好三人衆は、焦ることなく兵を整え、この時を待ち続けていた。
雪は消え、街道は開き、諸国との約定も済んだ。
ついに三好軍は挙兵する。
その進軍に迷いはなかった。
勝竜城を攻めることなく、ただ将軍足利義輝のいる京都へ向けて大軍を進める。
勝竜城は三好軍の背後に取り残され、足利方が備えていた前線拠点は戦略的な意味を失った。
さらに四月後半になると、畿内は長雨に覆われる。
火縄は湿り、火薬は扱いに細心の注意を要した。
足利・小田方が誇る坂東長筒も本来の威力を発揮できず、雨は双方の鉄砲を沈黙させた。
三好三人衆はこれを好機と見た。
京と勝竜城の間に広大な陣を築き、兵を無理に前へ出すことなく、小隊ごとに連携しながら着実に戦線を押し上げる。
突出せず、深追いせず、兵数の優位を面で生かす堅実な戦いであった。
一方で三好は奈良も決して見逃さなかった。
主力とは別に選び抜いた兵を生駒山へ送り込み、かつて敗れた山中へ再び陣を構える。
しかし今度の目的は奈良侵攻ではない。
筒井順慶を京へ向かわせないこと。
それだけで十分だった。
兵たちは山中に残る岩窟寺院や掘りかけの石窟を利用して天然の要害を築き、洞窟に兵を潜ませ、岩陰に鉄砲隊を伏せた。
夜になれば山を下りて補給隊や斥候を襲い、夜明け前には再び岩窟へ姿を消す。
順慶は討伐軍を送り込むが、生駒山の険しい地形では大軍を展開できない。
敵を追えば洞穴へ逃げ込まれ、包囲すれば別の尾根から現れる。
三好勢は執拗な奇襲戦を繰り返し、筒井軍を着実に疲弊させていった。
その頃、海では鹿島衆が動いていた。
三好軍への兵站を断つため、四国と畿内を結ぶ海路で大規模な荷止めを開始したのである。
阿波や讃岐から摂津へ運ばれる兵糧や武具、軍資金を押さえ込み、三好軍を兵站から弱らせようという策であった。
しかし、こちらも思うようには進まない。
最大の理由は堺である。
堺の商人は一枚岩ではなかった。
足利・小田方へ協力する者もいれば、三好との結び付きを重んじる者、中立を守り商売を続けようとする者もいる。
鹿島衆も再び堺を戦場にすれば交易そのものを失うことを理解しており、港を力で封鎖することはできなかった。
そのため荷止めは徐々に効果を現すものの、三好軍を直ちに干上がらせるほどではなかった。
さらに瀬戸内海そのものが鹿島衆の前に立ちはだかる。
狭い海峡を流れる激しい潮流、刻々と変わる潮目。
鹿島灘とは勝手がまるで異なり、瀬戸内に慣れた四国水軍は潮を味方につけて巧みに船を走らせた。
鹿島衆も優れた操船技術と砲戦で後れを取ることこそなかったが、敵を圧倒するには至らない。
海では互いに譲らぬ攻防が続き、物資の流れは細りながらも完全には途絶えなかった。
こうして四月の畿内は、京都では三好本隊が将軍を圧迫し、生駒山では順慶が釘付けとなり、瀬戸内では鹿島衆が荷止めを続けるという三つの戦場が同時に動き始める。
決定打はまだない。
しかし、天下を左右する大戦の幕は、確かに上がっていた。




