八月初頭 ―― 京に迫る戦雲
永禄七年八月初頭。
三好長慶亡き後、畿内は静かな混乱に包まれていた。
三好三人衆は将軍・足利義輝を討ち、京を掌握するため挙兵を決断する。しかし、いざ軍を起こしたにもかかわらず、その軍勢は一歩も京へ進まなかった。
理由はただ一つ。
長慶の喪主を誰が務めるか。
喪主とは単なる葬儀の役ではない。三好家の正統な後継を天下へ示す証であった。
「喪主は我らが務める。」
三好三人衆は互いに譲らず、それぞれの陣に兵を集め、睨み合いを始めた。
やがて争いは家臣の引き抜きへと発展する。
「あの武将を味方に引き入れろ。」
「断るなら始末しろ。」
使者が昼夜を問わず諸将の屋敷を巡り、京の町には密談と裏切りの噂が飛び交った。
そして、ついには暗殺が始まる。
夜ごと刃が光り、翌朝にはまた一人、有力武将が血を流して倒れていた。
三好家は将軍と戦う前に、自らの家中で戦を始めてしまったのである。
その渦中にあったのが、篠原長房と三好康長であった。
両名は三好家への忠義を貫き、「誰一人の家臣にもならぬ」と答えた。
その返答は、三好三人衆すべてを敵に回すことを意味していた。
「このままでは殺される。」
長房と康長は、それぞれ僅かな郎党を率いて京の御所を目指した。
しかし、追手は早かった。
洛中へ入る直前、追撃を受ける。
康長は槍を構え、長房へ振り返った。
「長房殿。」
「御所へ行け。」
「将軍家へ、三好は終わったと伝えよ。」
長房は首を振る。
「共に参る!」
「ならぬ!」
康長は郎党とともに道を塞いだ。
「今ここで二人とも死ねば、何も残らぬ!」
長房は涙をこらえ、馬を返さず御所へ駆けた。
背後からは槍と太刀のぶつかる音が響く。
やがて、一際大きな鬨の声が上がった。
その声を最後に、三好康長の槍は静かに地へ伏した。
---
御所。
佐野昌綱は傷だらけの篠原長房を迎えた。
長房は膝をつく。
「佐野殿……。」
「康長殿は……。」
それ以上、言葉は続かなかった。
佐野は静かに目を閉じる。
「……承知した。」
「康長殿の覚悟、決して無駄にはいたしませぬ。」
長房は震える声で続けた。
「もはや三好家はございませぬ。」
「三好三人衆は将軍を討つ前に、互いを討ち始めました。」
「京を守らねば、天下は乱れます。」
その言葉に、御所の空気はさらに張り詰めた。
---
この知らせは本願寺にも届いていた。
下間頼廉は深く数珠を握り締める。
「将軍暗殺まで黙して見過ごすことはできぬ。」
本願寺そのものは動かせない。
しかし志を同じくする者はいる。
頼廉は賛同する僧兵だけを集めた。
「これは本願寺の軍ではない。」
「仏法と帝、そして将軍を守らんとする者だけが参れ。」
数百の僧兵が静かに立ち上がる。
そのまま御所へ入り、義輝に忠節を誓った。
---
一方、大和。
中立を掲げていた筒井順慶も、ついに決断する。
「帝と将軍の御身に危険が及ぶなら、中立では済まされぬ。」
順慶は大和国衆と寺社勢力をまとめ、国境へ進出した。
その姿は、戦を望む者ではなく、大和へ戦火を入れまいとする守護そのものであった。
---
さらに紀伊では、雑賀衆が立ち上がる。
少弐冬明と陶が率いる小田の選抜隊が到着すると、鈴木一族は快くこれを迎えた。
「京への道は我らが知る。」
雑賀衆は最小限の兵を紀伊に残し、道案内だけを任せる。
残る精鋭は鉄砲を携え、小田軍とともに京への進軍を開始した。
真壁幹久を総大将とし、
少弐冬明、
陶、
そして本来は戦御免であった宍戸政繁までもが志願し、その列へ加わる。
「京を守る。」
ただ、その一念だけを胸に。
こうして京へ向かう援軍は、一歩、また一歩と西へ進んでいった。
一方、御所では佐野昌綱が静かに刀へ手を添える。
敵はまだ来ない。
しかし、その足音だけは、確実に京へ近づいていた。




