三好長慶、逝く
永禄七年七月。
梅雨が明け、京を照りつける陽射しは日に日に強さを増していた。
その頃、一通の急報が信濃屋へ飛び込む。
息を切らせた使者は、佐野昌綱の前へ膝をついた。
「申し上げます。」
「河内飯盛山城にて――」
「三好長慶殿、逝去されました。」
部屋は静まり返った。
佐野は目を閉じる。
ついに、その日が来た。
長慶は昨年より病に伏し、政務の多くを家臣へ委ねていた。
一時は持ち直したとの噂も流れたが、それも束の間。
病は少しずつその身を蝕み、まるで低空飛行を続ける鳥のように、墜ちることも飛び立つこともできぬ日々が続いていた。
そして、静かにその生涯を閉じたのである。
しかし、真に恐ろしいのは死そのものではなかった。
佐野はゆっくりと口を開く。
「後継は。」
使者は苦々しく首を振る。
「ございません。」
「いや……。」
「決められなかったのでございます。」
長慶には優れた器量があった。
だからこそ知っていた。
誰を立てても家中が割れることを。
一門。
重臣。
三好三人衆。
それぞれが異なる思惑を抱き、誰もが自らの正義を掲げていた。
長慶は最後まで均衡を保ち続けた。
だが、その均衡は長慶という一人の人間がいて初めて成り立つものだった。
その柱が失われた瞬間――。
均衡は音を立てて崩れ始める。
その夜。
信濃屋の奥座敷で、佐野と空蝉は向かい合っていた。
酒はない。
湯気の立つ茶碗だけが二人の間に置かれている。
空蝉は静かに目を閉じた。
「終わったな。」
佐野は頷く。
「ええ。」
「ですが、これから始まります。」
空蝉は小さく笑った。
「そうじゃ。」
「長慶は京を乱さぬために生きた。」
「じゃが、死によって京は乱れる。」
その言葉には皮肉も悲しみも込められていた。
「見事な武将であった。」
「ゆえに最後まで家を支えた。」
「しかし、見事すぎた。」
「後を継ぐ者を決めることができなんだ。」
佐野も静かに頷く。
「誰を選んでも争いになる。」
「だから選べなかった。」
「その結果、誰も選ばれなかった。」
空蝉は遠くを見つめる。
「それが、この京にとって最大の災厄じゃ。」
しばらく沈黙が流れた。
やがて一羽の鷹が窓辺へ舞い降りる。
脚には小さな筒が結ばれていた。
佐野は手早く文を取り出す。
出浦からだった。
短い報せである。
«『三好三人衆、動く。』»
«『兵を集め始めた。』»
«『狙い、京。』»
佐野は静かに文を畳む。
「始まりました。」
空蝉は琵琶を抱き寄せた。
──ぽろん。
低く響く一音が部屋へ流れる。
「もう止まらぬ。」
老僧は静かに言う。
「三好三人衆は、もはや将軍を戴く気はあるまい。」
「自らが京を支配するつもりじゃ。」
佐野の瞳が鋭くなる。
「ならば。」
「狙いは御所。」
「義輝様です。」
空蝉は静かに頷いた。
「これより始まるは戦ではない。」
「京そのものを巡る争いじゃ。」
「武だけでは勝てぬ。」
「知恵も。」
「人の縁も。」
「覚悟も試される。」
佐野は刀へ静かに手を置く。
紫陽花を眺めた穏やかな日々は終わった。
薬師寺で交わした約束も。
千陽が見せた笑顔も。
すべては、この時のためにあったのかもしれない。
京には再び、不穏な風が吹き始める。
その風は、やがて御所をも飲み込み、歴史に残る大乱へと繋がっていく。
――三好三人衆による、京都攻略戦の幕が、静かに上がろうとしていた。




