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紫陽花の約束

永禄七年六月。

梅雨の雨が、静かに京の町を包んでいた。

信濃屋の二階で、佐野昌綱は一人、これまでの出来事を思い返していた。

篠原長房。

一色藤長。

下間頼廉。

それぞれ立場は違えど、皆、戦を望まず京を守ろうとしていた。

その中でも、一色藤長のことが胸に残っていた。

「あのお方は……。」

佐野は窓の外へ視線を向ける。

一色は理想だけを語る人物ではなかった。

将軍家と三好。

朝廷と武家。

商人と寺社。

互いに譲れぬ者同士の間へ立ち、現実を見据えながら折り合いを探す交渉役である。

「三好の内情を知っていたのも、不思議ではない。」

京で最も多くの人と会い、最も多くの話を聞く立場。

秘密が漏れていたのではなく、自然と一色のもとへ集まっていたのだ。

一方で、進士晴舎の姿も思い浮かぶ。

義輝に付き従う内務官。

政にも礼法にも優れ、誰よりも将軍を支えてきた男。

佐野は静かに首を横へ振る。

「進士殿ではない。」

「あのお方は、義輝様に心酔している。」

「内通などするはずがない。」

ならば、内に潜む者は別にいる。

その思いだけが胸に残った。

数日後。

空蝉が佐野へ声を掛けた。

「そういえば。」

「去年、姫様が紫陽花をご覧になりたいと言うておったな。」

佐野も思い出し、小さく笑う。

「そうでした。」

「約束を果たさねばなりません。」

空蝉は頷いた。

「嵐の前の静けさじゃ。」

「今のうちに、笑える時は笑うておけ。」

その言葉に、佐野は静かに頷いた。

その日。

佐野は将軍家の姫を伴い、京でも紫陽花で名高い寺へ向かった。

供は最小限。

空蝉も僧として静かに同行した。

境内へ入ると、雨露をまとった紫陽花が一面に咲き誇っている。

青。

紫。

白。

雨に濡れた花々は、まるで宝石のように輝いていた。

姫は思わず息を呑む。

「……なんて綺麗なのでしょう。」

ゆっくりと花の間を歩きながら、嬉しそうに微笑む。

「去年、お話ししたことを覚えていてくださったのですね。」

「もちろんです。」

佐野が答える。

「約束でしたから。」

姫は嬉しそうに笑った。

その笑顔を見た空蝉も、静かに目を細める。

三人はしばらく花を眺めながら歩いた。

しかし姫は、ふと立ち止まる。

「最近……。」

小さく呟いた。

「京の空気が変わりました。」

佐野は黙って耳を傾ける。

「兄上も。」

「一色殿も。」

「進士殿も。」

「皆さま笑っていても、どこか張りつめています。」

「何も教えてはくださらないけれど……。」

姫は紫陽花を見つめながら微笑んだ。

「きっと、何かが起こるのでしょうね。」

佐野は否定も肯定もしなかった。

それだけで十分だった。

姫は静かに花へ触れる。

「だから今日は。」

「この景色を忘れないようにしたいのです。」

空蝉は二人を見つめると、静かに立ち上がった。

「わしは向こうで琵琶でも奏でておる。」

そう言い残し、東屋へ歩いてゆく。

──ぽろん。

一音だけ響かせると、それ以上近寄ることはなかった。

雨音だけが二人を包む。

姫は少し照れたように笑った。

「佐野様。」

「はい。」

「まだ、私の名をお伝えしておりませんでしたね。」

佐野は少し驚く。

姫は紫陽花を見つめたまま、小さく息を吸った。

「千陽と申します。」

「千の陽と書いて、千陽。」

佐野はその名を静かに繰り返した。

「千陽様。」

姫は嬉しそうに頷く。

「だからでしょうか。」

「私は紫陽花が好きなのです。」

「陽の字が同じだから……ですか。」

「はい。」

千陽は笑った。

「それに私は六月生まれなのです。」

「幼い頃から、この季節になると乳母が庭へ連れて行ってくれました。」

「『千陽様の花ですよ』と。」

雨粒が紫陽花を静かに濡らしていく。

千陽は花を見つめたまま、小さく微笑んだ。

「だから、この花を見ると安心するのです。」

しばらく沈黙が続いた。

やがて千陽は、ゆっくりと佐野へ向き直る。

「佐野様。」

「今まで、本当にありがとうございました。」

突然の言葉に、佐野は目を見開く。

「何をおっしゃいます。」

「私は当然の務めを果たしたまでです。」

千陽は静かに首を振る。

「違います。」

「奈良でも。」

「京でも。」

「いつも兄上を支え、そして私まで守ってくださいました。」

「私は、とても嬉しかったのです。」

少しだけ目を潤ませながら、それでも笑顔を崩さない。

「本当に……ありがとうございました。」

佐野は静かに頭を下げた。

「千陽様。」

「私はこれからも義輝様を、そして千陽様を、お守りいたします。」

その言葉を聞き、千陽は安心したように微笑んだ。

「ありがとうございます。」

「そのお言葉だけで十分です。」

遠くから。

──ぽろん。

空蝉の琵琶が静かに響く。

老僧は振り返ることなく、ただ雨に咲く紫陽花を眺めていた。

やがて三人は寺を後にする。

誰も未来を語らなかった。

けれど、それぞれの胸には同じ思いがあった。

この穏やかな日々が、いつまでも続いてほしい――。

しかし梅雨空の下、紫陽花だけは何も知らぬように静かに咲き続けていた。

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