嵐の前の静けさ
永禄七年五月。
新緑が山々を覆い始めた頃、信濃屋へ一羽の早馬が駆け込んだ。
差し出された書状には、小田家の朱印が押されている。
佐野昌綱は封を切り、一字一句を丁寧に追った。
> 「駿河・甲斐にて北条勢、小山勢、一向一揆を破る。」
> 「一揆勢は離散。」
> 「なお、多くは三河方面へ落ち延びる。」
さらに最後の一文に、佐野の目が止まった。
> 「戦いを諦めた者ども、武器を捨て、奈良を目指す歩調あり。」
佐野は静かに書状を畳んだ。
「……氏治様らしい。」
敵を討つだけでは終わらせない。
生きる道まで用意する。
だからこそ、各地で武器を捨てる者が現れ始めたのだ。
その日の夕刻。
佐野は空蝉を伴い、信濃屋の奥座敷へ向かった。
老僧はいつものように琵琶を抱え、酒ではなく白湯を静かに口へ運んでいた。
佐野は書状を差し出す。
「師よ。」
「駿河と甲斐でも一向一揆が鎮まりました。」
空蝉は目を細め、書状へ目を通す。
やがて小さく頷いた。
「北条と小山か。」
「上出来じゃ。」
佐野は続けた。
「一揆勢の多くは三河へ逃げ込んだそうです。」
「ですが、武を捨てた者たちは奈良へ向かい始めた、と。」
空蝉は静かに笑った。
「そうか。」
「ようやく始まったか。」
佐野は尋ねる。
「この報は。」
「下間殿へ伝えようと思います。」
空蝉は頷いた。
「それでよい。」
「奈良移住策が形になり始めたことを知らせてやれ。」
「本願寺も安心するじゃろう。」
佐野はその場で筆を執り、下間頼廉宛ての書状を書き始めた。
『駿河・甲斐にて一向一揆鎮圧。』
『武装解除した者たちは奈良へ向かう様子あり。』
『薬師寺にて定めた策、いよいよ始まる。』
短くまとめると、信頼できる使者へ託した。
その姿を見届けると、空蝉はゆっくりと立ち上がり、縁側へ出た。
夕日に染まる京の空を眺めながら、小さく呟く。
「……いよいよじゃな。」
佐野も隣へ並ぶ。
「何がでしょう。」
空蝉は苦笑した。
「三好長慶よ。」
「去年から怪しい怪しいと思うておったが……。」
「思うたより長う持ちこたえたわ。」
老僧は肩を揺らして笑う。
「なかなかしぶとい御仁じゃ。」
その笑みはすぐに消えた。
「じゃが。」
「もう長くはあるまい。」
佐野も表情を引き締める。
長慶が倒れれば、三好家は大きく揺らぐ。
そして、その混乱を待っていた者たちも動き出す。
三好三人衆。
松永久秀。
将軍家。
本願寺。
織田。
誰もが京を巡って動き始める。
空蝉は静かに佐野を見る。
「これからが本当の乱世じゃ。」
「今までの戦は前座に過ぎぬ。」
「京が荒れる。」
「人が死ぬ。」
「信じていた者ほど裏切る。」
しばらく沈黙が流れた。
やがて空蝉は表情を和らげる。
「だからこそじゃ。」
「飯を食っておけ。」
佐野は思わず笑った。
「飯……ですか。」
「ああ。」
空蝉は大きく頷く。
「腹が減っては、よい知恵も浮かばん。」
「眠れる時は眠れ。」
「食える時は食え。」
「乱世では、それが一番難しい。」
佐野は深く頭を下げた。
「肝に銘じます。」
空蝉は琵琶を抱え直し、静かに爪を弦へ添える。
──ぽろん。
澄み切った一音が、初夏の夕暮れへ静かに溶けていった。
その穏やかな音色とは裏腹に、京にはすでに、誰にも見えぬ大きな嵐が近づいていた。




